自分なら問題行動の罰として置き去りはないわーと思った

北海道で「しつけ」として置き去りにされた男児が話題で、個人的にもそのサバイバルエピソードに興味津々だ。

今朝たまたまテレビをつけたら、その話題でスタジオの出演者数名が全員揃って「自分もそういうことされた経験はあるし、『しつけ』として一概にはダメと言えないと思うんです…」的なお茶を濁したコメントをしていて意外に思った。そこはドヤ顔で父親を否定しておいた方が受けがいいんじゃないのかな?

私の考えでは、そういう「しつけ」はナシである。報道されている通りの経緯だとすれば、問題行動に対して「しつけ」のためとして罰を与えたようだが、それが「しつけ」につながるとは考えられない。

そもそも親が力を使って子供をやっつけるようなことは、いかなる原因・目的であっても相手に「いつか仕返してやる」という気持ちを抱かせることになり、最終的にろくなことにならない。といった趣旨のことが河合隼雄先生の本に書かれていた。それは確かにそうだと思って、常に心に留めている。

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書かれていたのは確かこの「大人になることのむずかしさ」だったかな? 新装されて文庫になっていたとは知らなかった。

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自分の子供が善良でマトモであると信じるならば、問題行動には何かしら子供自身の力だけでは解決できない原因があるはずだ。単なる勘違いかもしれないし、ストレートに表出できなかった感情が長時間蓄積した結果吹き出してきたものかもしれないし、軽重、大小の差はあるだろうが。

子供の中からそれを引き出し、解決の手助けをしたりヒントを示したりできないのだとしたら、単に罰を与えて「痛い目に遭いたくなかったら問題行動を直せ」と言うだけだとしたら、親のいる意味がないのではないか。

罰というのは、契約や約束ごとがなされなかった場合に、その重要性に釣り合う形で設定するなら意味があると思う。それ以外の単なる罰は、安易な近道(何に至るのかはよくわからない)ではあってもベストな問題解決方法ではないだろう。

男児発見前のどこかのテレビ番組では、父親は1回男児を車から降ろし、泣いて追いかけてきたところを1度は乗せてやったが再度降ろして、今度は視界外まで走り去った(で5分前に戻ってきた)と聞いた。そしてどうやら、男児は2度目に降ろされたときにもう父親の車は追いかけず、さっさと別の方向に歩いていったことになるようだ。

「しつけ」をどういう意味で使っているのか不明だが、たぶん「しつけ」の目的は果たせていない。今回ぐらい大事になると、もはや何がどう作用してどうなるのか最終的にはよくわからないが。

さておき、関連して、自分は3つ+1の育児の教えを常に考えているなと思ったので、ちょっと書いおこうと思った。

  1. 叱ったり否定したりする対象は「行動」であって、「人格」を攻撃してはいけない
  2. 「わたし vs. あなた」の構図にしてはいけない。「わたし&あなた vs. 問題」の構造にして話し合わなければならない
  3. 寝る前や出かける前など、長い時間離れる前に叱ってはいけない
  4. どんな小さな子供でも、物事の理由まで説明するべし

どれも、たいていのまともな育児書に出てくる、と思う。2番目は先述の河合先生の教えにも通じるし、そこらへんのマネジメントの本にもよく書かれているはずだ。クライアント/部下/上司と対立する構図で話すな、みたいな感じで。

3番目はいつかブログにも書いた。そうしたらいつも気になって、たいして守れている気もしないがいくらかは気を使っている。4番目はあまり本に書かれていないかもしれないが、感情を収めたあとで理屈も語るってのは意味があると思うので。

最近いくつか立て続けに「育児は難しい。育児に正解はない。でも悩むことは意義深い」みたいな話を読んだ気がして、でも自分はできるだけ悩まず、子ども自身が選べるようにお膳立てし、子供の選択を全力で支援できるように心の準備を整えるようにしてるかなーとか思った。正解かどうかは知らない。