なぜ我々はネットの釣りやデマに惑わされやすいのか

先日、「Twitterに書いてあることにいちいち惑わされるな、ということは『人の言うことにいちいち惑わされるな』と同じぐらい当たり前だ」といった趣旨のツイートを目にしました。

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その通りではあるのですが、実際のところ、人間の認知・思考システムにとって、Twitterなどネットに書かれたこと(文字)と、人の話(声)を同じように処理するのは、意外と難しいようです。

なので「人の言うことには惑わされないけれど、Twitterではホイホイ釣られました」といった状況になるのも、それなりに理由があります。端的に言えば、私たちは、もっともらしい文字情報に騙されやすいのです。それは、なぜなんでしょうか?

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声は一度きりだが、文字は繰り返し目に届くうえに、主張がブレない

声による「話し」は、いちど発せられたら消えてしまい、二度と耳に届くことはありません。一方で文字(記録されたもの)は消えず、何度も目に入る可能性があります。

当たり前の話ですが、これが「文字」と「声」の根本的な違いでもあります。

記録されていない「声」は、発せられたときに相手の耳に届かなければ完全に不発です。耳に届いたとしても、次の瞬間から相手の記憶の中で風化していったり、都合のいい形に形を変えられていったりもします。

また、反論や無視によって話し手が沈黙し、その話はそこで終わり、ということもままあります。

一方で、文字は何度も視界に入る機会があります。意識的に読み返さなくても、タイムラインをざっとスクロールしたときに目に入り、気になるキーワードでも入っていればじっくりと読まれ、さらに、他のツイートを読むついでに目に入ったりもします。

また、声と違って、文字は何度でも同じ主張を繰り返します。読み手が「ん?」と思って読み返すと、また同じ文字が目に入りますし、反論や無視にあたる操作(例えばアンフォロー)をしたあとでも、ふたたび同じツイートが目に入ることもあります。

オングの「声の文化と文字の文化」には、次のように、声と対比した文字(書かれたもの、印刷されたもの)の力が説明されています。

巫女や預言者とおなじように、書物は、ある発話をその発信源、つまり、その書物をほんとうに「語った」者、あるいは書いた者から引き継ぐのである。会えさえすれば、著者に問いただすこともできるだろうが、どんな書物のなかでも著者にはけっして会えない。テクストに直接反駁する方法はない。完膚なきまでに反駁したあとでも、あいかわらずまったくおなじことをテクストは語りつづけている。「書物にはこう述べられている」と言うと、世間では、「それは真実だ」という意味に受け取られてしまう理由の一つはそんなところにある。
(W-J・オング「声の文化と文字の文化」P.167より)

接触機会が多く、主張がブレない。並の声よりも、テキストデータとして流通するツイートがネットユーザーに強く影響を与える理由の根本は、そのあたりにあると考えられます。

これは余談になりますが、何か傷つくことを言われるときに、口頭で言われるよりも文字にされる方がずっとダメージが大きい理由も、同じことになるのでしょう。

声は話し手の力が要求されるが、文字は誰でも簡単に破壊力を持たせられる

文字で書かれたことが、すべての場合で声より強いというわけではありません。

声の力は基本的に、声を発した本人の力、具体的には声量や話し方などに依存します。ボソボソとしゃべるだけでは聞き流されるだけかもしれませんが、うまいアジ演説は、そこいらの煽り文よりも多くの人を扇動する力があり、気迫のこもったお願いや説得は、強く心を動かします。

一方で文字の力は、文字を書いた本人の力の入れように、必ずしも関係しません。単純な例を挙げれば、コピペをベースにちょこちょこ書き換えるだけで、簡単に誰でもそれなりの破壊力のある煽りや釣りができてしまいます。

つまり、ネットにおいて文字情報を発信するのは非常に手軽で、そこそこ強力な、人に影響を及ぼすための手段であるわけです。

周囲とのコミュニケーションが希薄で、熱心が議論や心のこもった会話をする機会がない一方で、常にスマホは手放さないようなライフスタイルにおいては、必然的に文字の影響を強く受けていくようになります。

ネットの文章はメタ情報が少ないので、多面的な評価がしにくい

人が会話するとき、交わされるのは言葉だけではありません。表情や仕草などの非言語情報によるコミュニケーションも組み合わせて、話の信憑性や、その話に乗るべきか否かといった判断が行われます。

しかし、ネットで流通する情報では、そういった非言語情報などのメタ情報が少なくなります。

昔であれば「ホームページ・ビルダーの機能を雑に使っている」とか「サーバーが無料ホームページサービスである」といったことがコンテンツの信憑性を推しはかる目安の1つになっていでしょうが、Twitterのようなサービスでは、そうした見た目の違いもありません。プロフィール画像やプロフィール、ハンドルネームなどは鍵になるメタ情報ですが、非公式RTで流れてきたりすると、それらもよくわからなくなります。

結果、悪い意味で「純粋にコンテンツが評価され」ることが多くなり、もっともらしいデマが検証されないままリツイートされまくったり、よくできた作り話が爆釣になったりすることになります。

ネットの影響力が認知され、利用されやすくなっている

昨今では、何だかんだでネットの影響力はある程度認知されていますね。ネットで批判が集中して著名人や企業トップが頭を下げるハメになったり、「ネットで炎上した=あいつは悪い奴」みたいな判断も単純に行われがちであったり。

その結果、ネットの影響力を利用しようと、キャッチーな煽りや強烈な批判、誹謗中傷の類がますます増えていきます。そこまでの狙いを持たなくても、いっちょ上手いこと言ったろかと思って「わかりやすく」してみた一言が意外にバズってしまう、なんて経験がある人も多いのではないでしょうか。

「文字は強いが、ネットでは元手が超安い」ということを心得ておく

文字が声よりも強い影響力を持つのは、文字を流通させる方法が書き文字や印刷物しかなく、文字情報に一定の希少性があった時代の名残ということもあるかもしれません。

しかし、今やネットで流通する文字情報の発信コスト(の下限)は、他人の世間話以下です。例えば人間が14,000文字分しゃべろうとすればそれなりに体力を消費しますが、煽り文章を1,000ツイート分流すのなど、やりようによってはわりと簡単なわけで、おそろしく高いコストパフォーマンスで影響力を発揮できることになります。

Twitterが始まったばかりのころには「多くの人をフォローしてノイズの海に浸るべし」といった話もありましたが、今では、無作為にフォローした中に「ネットの力を有効に使ったるで〜」とった人たちが何人か混ざると、もはや刺激が強すぎて毒になってしまいます。

今の時代、ソーシャルメディアを有益に使うためには、まず「刺激物を避ける」ことが非常に重要だと言えます。フォローするならオーガニックなユーザーを選ぼうね、みたいな。

オーガニックなユーザーって何だ……?