もしも「アンネの日記」が電子書籍だったら破損事件は起こらないか?

都内の図書館などで確認された「アンネの日記」破損事件が話題です。そこで、ふと思うのが「『アンネの日記』が電子書籍の形で提供されていたら、どうだったか?」ということです。

書物は論破できないから焚書される

「声の文化と文字の文化」(W-J・オング)には、「声」に対する「書物」の特性として、次のようなことが述べられ、焚書に至る「書物との対立」の起こる理由が語られています。

声の文化と文字の文化
4938661365

スポンサードリンク

巫女や予言者とおなじように、書物は、ある発話をその発信源、つまり、その書物をほんとうに「語った」者、あるいは書いた者から引き継ぐのである。(中略)
テクストに直接反駁する方法はない。完膚なきまでに反駁したあとでも、あいかわらずまったくおなじことをテクストは語りつづけている。「書物にはこう述べられている」と言うと、世間では、「それは真実だ」という意味に受け取られてしまう理由の一つはそんなところにある。焚書がおこなわれてきたわけも同様である。(中略)
強情で言うことをきかないのが、テクストの本性なのである。
(「声の文化と文字の文化」P.167より)

犯行の意図は不明ながら、「アンネの日記」を破損する攻撃者の心理としては「この本を黙らせたい」「排除したい」「処刑したい」といったものがあり、「書物」というメディアが持つ特徴であるところの、徹底して主張し続ける強情さが、攻撃者を刺激する(それは妄想の域だとも言えるでしょうが)のではないかと想像できます。

電子書籍は紙ほど強い感情を向ける対象たり得ない

電子書籍は、書き換え可能なソフトウェアです。もしも大量の収録ソフトウェアの1つとして「アンネの日記」があったとしても、攻撃者は電子書籍リーダーを破壊しようとはしないでしょう。

もちろん、壊せばモロバレであるとか、あからさまに高額な弁償を要求されそうであるとか、そういうこともあるかもしれません。しかし、それだけでなく、ソフトウェアを切り替えれば言ってることがまりっきり変わるという仕様が、敵対心をそこまで刺激せず、ある種の示威的な処刑行為の対象としては存在感に欠け、被害を免れうるのではないか、といった想像もあります。

実際のところ、どんなものかは分かりませんし、今度は電子書籍ライブラリーからデータを消す事件が発生するかもしれません。また、紙の本として存在することに勇気付けられる、という人もいるでしょうし、対立を生みやすいセンシティブなテーマの本は電子版にすれば? という提案がしたいわけでもありません。

ただ、紙の本には言ってみれば「言霊の依り代」のようなスピリチュアルな面もあり、対して電子書籍は、もっといい意味でも薄っぺらでなモノである、ということは言えるのではないかと思え、意外と興味深い相違点なのかも、と思った次第ですがどんなものでしょう。

よくある「紙の本は手触りが〜」「インクの匂いが〜」といった発言も、こうした「書物」が持つスピリチュアルな面を各自が言語化した結果だ、と言えるのかもしれません。