モノを見る解像度と「主語の大きな人」問題

世の物事を見る「解像度」について、最近ちょっと考えています。

身近なものは詳細に(高解像度で)見えるけれど、遠くのものは大まかに(低解像度で)しか見えない。これは、ごく当たり前のことです。例えば、東京人にとって23区の間の違いは重要ですが、鳥取と島根の違いはさして重要ではありません。

しかし、日々を漫然と過ごしていると、身近なものを見る目はくもって解像度を失い、メディアからプッシュされてくる遠くの粗い情報ばかりが脳を埋めてしまうことがあります。

特に、毎日の生活や仕事が単調で刺激が弱くなり、忙しさにかまけてメディアも「目立つところをかいつまんで」みたいなことをしていると、てきめんにダメになってしまいますね。特にネットでは解像度の低いメッセージをでかい声で発する人が良くも悪くも(主に後者の方で)よく目立ちます。

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例えばオリンピックは、テレビやWebのニュースだけを見ていると「誰々が何メダル」ぐらいしか記憶に残りませんが、競技のライブ中継を見ていれば、それよりもはるかに解像度高く、メダルを取った取れなかっただけではないものを見ることができます。

珍しく男子フィギュアスケートの中継を見て、メダルを取ったの取らないのだけを気にすることが、なんと味気ない見方かと、改めて感じました。とはいえ「たいして興味はないけど話のタネとして知っておきたい」といった向きには、ニュースの報道の仕方はちょうどいいのでしょうが。

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自分にとって大事な部分を見る解像度を失わず、また、そうでもない分野ではある程度効率を重視しつつ適切な手法で解像度を落とした情報を摂取する、ということは、マトモな人生を送るために必要な基礎的なことだなと、最近改めて思う次第です。

解像度が低い ≒ 主語が大きい

こうした「解像度」の話というのは、ネットの一部界隈(?)で言われるところの「主語の大きな人」問題とつながります。

目に付いた1、2の事象から「これだから男(女)は〜」とか「日本人は〜」とか、やたらと大きな対象に一般化して論じてしまう、というクセがある人に対し「主語の大きな人」という言い方をすることがあります。

「自分の体験談をベースに一般論を展開」というのが、実はそもそも問題で。自分の体験談を話して、その感想だけ言えばいいのに、一般論に展開するというのは、ひとことでいえば「主語が大きい」だ。ブックマークが多くつく話題というのは大体「主語が大きい」話である
「うまいこと相手の揚げ足をとる」ばかり考えているのは、マスコミやブックマーカーだけでなく、ブロガーもだよね – ARTIFACT@ハテナ系

主語を大きくする≒物事の解像度を落とし問題を単純かつ一般化する、というのは、ネットにおいては「釣り」の基本的手法の1つだと言っていいでしょう。とすると、話を盛り上げ注目を集めるために、物事の解像度を落とすのが手っ取り早い、とも言えそうです。

「主語の大きな人」への評価は、おおむね一定していると思います。決して好意的な評価ではなく、モノの見方や考え方が雑かつ硬直化している人、実のある会話をしにくい人といったところでしょうか。

君子、解像度の低い言説が飛び交うところに近寄らず。積極的に語りたい分野への解像度を失わず。改めて、心がけたいと思います。