自分の「まともさ」を支える「自己肯定感」:社会ネットワークのひみつ(3)

この文章は、社会的ネットワークと、その中での生き方について、息子(2013年現在、小学校1年生)が小学5、6年生ぐらいになったときに読んでくれる、という想定で書いています。

息子と、これから息子と関係していく方達に、何かの役に立ててもらうことができれば嬉しく思います。


前回「水泳好きも、バカも、肥満も「伝染」する」では、ネットワークの中でお互いが影響しあうという話をした。それを踏まえて、ネットワークの中で暮らす私たちにとって、大事なものがあるよ、というのが今回の話となる。

当たり前のことだけど、機械のネットワークは、ネットワークを構成するすべてが「まともに動く」ことを前提に成り立っている。

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例えば、家のルーターが壊れたらインターネットに繋がらなくなってしまうから、修理なり交換なりをしなくてはいけない。ウイルスに感染した端末はまともではないから、ネットワークから遮断しないと、他の端末までウイルスにやられてしまう。ウイルスを駆除し、必要に応じて修理や交換をしないといけない。

人間のネットワークでも、まともじゃない人が周囲にいると、トラブルが起きたり、ものごとが予定どおりに進まなかったりして、おかしくなってしまう。だが、人間のネットワークでは、まともじゃない人がいたとしても、いろいろな事情によって、簡単には排除できない場合が多い。

それに、そもそも「まとも/まともじゃない」とは何なんだ? と考えだすと、なかなか難しい問題になる。

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自分にとって好都合か不都合か、好きか嫌いかといったことは、は「まとも」かどうかの判断基準にならない。不都合な相手でもまともな反対意見なら聞く価値があるし、そもそも、好きだ嫌いだと言っている自分自身はまともなのか? とも考えた方がいい。

それに、どのようなネットワークとして見るかによって「まとも」の基準は異なる(例えばお医者さんのネットワークであれば、まず医師免許を持っているかどうかが「まとも」の条件になるだろう)が、細かいことは置いといて大雑把に人間のネットワークを考えるとき、その中にいる「まともじゃない」人というのは、だいたい3種類に分類できる。

社会にいる「まともじゃない人」の3つのパターン

1つ目は、心身に何らかの障害があって、ネットワークの(社会の)中でやっていくためのコミュニケーション能力に問題がある人。例えば「アスペルガー症候群」と呼ばれる障害を持つ人の中には、他人の気持ちを読み取って反応する、ということができない人がいる。だけど、こうした人たちも、医学の(薬の)力を借りたり、周囲の助けを得たり、本人が努力をしたりして、ネットワークに加わっている。

2つ目は、反社会的人格。周囲の善意を吸い取る自己中心的な人や、周囲をだましたり裏切ったりすることを悪いことと思わない人。機械のネットワークでいえば「やたらと電力を食うけど役に立ってはいないパーツ」とか、「情報を集めるだけ集めて、何もしない機械」といった感じだろうか。こういう連中は得てして巧妙な策略家でもあって、排除するのは簡単でないことも多い。また、ズルいヤツだからといってただ排除するのもどうかという場合もある。

3つ目は、自分を過小評価している人。「どうせ自分なんか……」と尻込みしてしまったり、恥ずかしがってキチンとやりとりをしてくれないような人。こういう人は、反社会的人格とは反対の意味で難しい。そもそも「まともじゃない」と言ってしまうのも気の毒だけども、周囲とうまく合わずに、いつのまにかはじっこに行ってしまうような人もいる。

機械のネットワークでいえば、もっと性能があるはずなのに十分に活躍できなかったり、肝心なときに調子が悪かったりして、性能が過小評価されていたりする装置や、電波が弱くて接続する優先順位が低い端末といった感じだろうか。

もっとも数が多く、自覚/発見しにくくて厄介なのが、この3つ目だ。ネットワーク全体として見れば1、2よりも大きな問題にはなりにくいが、3つ目に該当する当人が、つらい思いをする。

心の底にある「何でもない自分のままで、それでいい」という気持ちが自分を支える

ネットワークの中で生きていくには、まず「自分はまともだ」と自分で思えることが、とても大事だ。このことを指して「自信」とか「自尊心」とか呼ぶこともあるが、ここでは以降「自己肯定感」と呼びたい。どれも似たような意味だけども、普通の何でもない自分を「それでいい」と前向きに捉えられる、心の底にいつもあるエネルギーみたいなものだ。

自己肯定感のある人は、周囲の人から見て話しかけやすく、遊んだり会話をしたり頼みごとをされたりする機会が増え、それに本人が応えられる機会もおのずと増えて、ネットワークの中で存在感を増していく。

そうでない人は、いつもオドオドしていたり、自信なさそうに引っ込んでいたりして、ネットワークの中でやっていくためのエネルギーがそもそも足りない状態で、チャンスを次々と逃がしていく。

例えば、目の前に困っている人がいる。自分が助けてあげられるかもしれない。でも「自分なんかが声をかけちゃ迷惑かな……」とか「もっといい人がいるかも……」とか思っていては、何も起きない。誰かに頼みごとをしたい人は、うつむいてモジモジしている人よりは、ニコニコしていて話しかけやすそうな人に声をかけたいものだ。

だから、モジモジしていると、その人が本来持っているいい面——優しさや賢さ、またはその他いろいろ——を発揮する機会も失われてしまう。

そういう小さな分かれ道のひとつひとつで、いい方に行くか、行かないかの重要なカギを、自己肯定感がけっこう強く握っている。機械のネットワークに例えてみれば、分かりやすい。優先順位の低い相手、期待通りに働いてくれるかわからない不安要素の多い相手とは、コミュニケーションの機会は減る。

自己肯定感はどう作る?

自己肯定感は、周りの人に受け入れられたり、自分に自信を持てたりという経験の積み重ねで、自分の中で作られていく。赤ちゃんのころの、泣いている自分をきちんとかまってもらえたか、甘えたいときに十分に甘えられたか、といった経験が、とても重要らしい。

どうやら、自分で自分を肯定するためには、自分自身がほか人から肯定された経験が必要らしい。どんな人も、親や友達や、まわりの人がしたように、自分自身に接する(そうした経験がないと、自分でも自分をどうしていいのかわからない)。そのときに肯定的に接してもらえた経験がたっぷりとあれば、自分を肯定的に捉えられる、ということだろう。

君は自分の小さいときを思い出して、どう感じるだろう? 私もお母さんも、たぶん君の要求に100%応えられていたとは思えない。だから、ひょっとすると、拒否された経験の方が強く印象に残っているかもしれない。このあたり、本人の(君の)認識と周囲の認識と、また親の認識とのすれ違いもある気がして、少々不安でもある。

もしも、そうだったとしても、大目に見てくれるとうれしいな。君は自己肯定感を十分に持っていると思うし、実際、積極的で優しい行動をほめられることが多いことを、私たちはとてもいいことだと思っている。

小さいときに十分に自己肯定感を持つことができなかった人も、大きくなってから、勇気を出して親切心を発揮して感謝されたとか、周りの人と楽しく話せるようになったとか、そうした小さな経験の積み重ねで自己肯定感を作っていくことはできる。だけど、たぶん赤ちゃんの頃にベースができている方がいい。有り体に言えば、ずっと生きるのがラクだろうね。

小さいときに作りそこねた自己肯定感をどう作っていくか、という話は、改めてどこかで書きたいと思う。

このあたりで、今回も話をまとめておこう。

社会で「まともな人」として自分を保ち、他人にもそう認識してもらうためには、自己肯定感が大切だ。そして、社会で出会う「まともじゃない人」は、だいたい「心身の障害」「反社会的人格」「自己肯定感がない」の3パターンのどれかにあてはまる。まともじゃなさそうな相手とコミュニケーションしないといけないときには、そこを見極めたい。

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自分には細かく厳しく。周りにはおおらかに優しく:社会ネットワークのひみつ(4) | Heartlogic

写真は、お台場の科学未来館にある情報通信ネットワークの体験モデル。3歳ぐらいの君は意味もわからず夢中になって遊んでいたが、小学1年生になったら、何をするためのものなのか理解できたようだ。ただ、一台が修理中になっていて、あまり長く遊べなかったけども。