現代の日本人も知っておきたいカール・ツァイス創業物語

カメラ好きの間でカール・ツァイスというと「マニアックで高価な(そして少々近寄りがたい)もの」という印象が強いと思うのですが、カール・ツァイスは特別に高級ブランドになることを指向した会社ではありません。

多くの労働者にとって働きやすい環境作りを進めてきた、という意味では庶民にやさしく、ひたすらに優れた光学製品の開発をめざしてきた(おかげで製品が高価なのは、確かに庶民にやさしくはありません。)のが、同社の歴史です。

カール・ツァイス社の創業のエピソードには、現代の日本人が読んでも参考になったり、共感できたりするところが多くあると思います。ここでは「カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史(小林孝久)」を引きながら、そのエピソードを紹介します。わかりやすさを優先して端折っている部分は、ご容赦いただけたら幸いです。

カール・ツァイス―創業・分断・統合の歴史
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(1)師の姿から「勘と経験」に頼ることの限界を悟り、ツァイスは学問を始める

カール・ツァイス社の創業者カール・ツァイスは1816年、ドイツ連邦(当時)のワイマールに生まれます。彼は職人の子(父アウグスト・ツァイスはワイマール宮廷の旋盤工長)で、当時の高校を卒業し、イエナ大公の宮廷職工長ケルナーの弟子になります。

ケルナーは望遠鏡のレンズ設計、特に光学ガラスの製造に必死に取り組んでいたそうです。ツァイスはその情熱を受け継ぎながらも、師の勘と経験に頼ったガラス製造には限界があることを悟り、大学の聴講生となります。そして数学や物理学、鉱物学、光学などを修めていきます。

若き日のツァイスとケルナーに関する描写は、本書の中でも非常に壮絶な部分です。少し長めに引用して紹介したいと思います。

師は全身から滲み出る汗とフイゴでとび散る塵埃で真っ黒になりながら、灼熱する溶融炉と取り組んでいた。ツァイスには就寝をすすめながら、自身は作業をつづけることがしばしばだった。レンズに適した光学ガラスを得るまでは、一瞬たりとも気を抜くわけにはいかないというのがケルナーの心情だった。ツァイスは、師にすすめられるままに寝床についたものの、フイゴの音で目覚め、眠られぬままに床をぬけ出すと、師は魔法使いのような形相で溶融炉の前に立っていた。

やがてガラスが冷却凝固すると、ケルナーは、ツァイスに手伝わせてガラスを小塊に割った。予定の大きさになったガラス塊を、根気よく磨きあげていった。しかし、できあがったプリズムやレンズは、どれも満足できるものではなかった。彼の顔は苦渋に満ち、空くことのない研究心が再び彼を燃え立たせるのだった。
(「カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史」p.12より)

(2)一流は一流を知る。若き数学者アッベを迎え共同経営者に

学問を修めた後にドイツ各地で実務経験を積んだカール・ツァイスは、30歳のときにイエナで起業します。最初に開発した顕微鏡は大成功を収め、1857年にはチューリンゲン一般工業博覧会で銀賞、1861年には金賞(最高の賞)を受けます。

こうした成功にもかかわらず、ツァイス自身は製品に懐疑的であったそうです。改良のための努力を続けた結果自らの数学の力に限界を感じ、イエナ大学のエルンスト・アッベ博士を訪ねます。

このとき、ツァイスは50歳、アッベは26歳。父子ほど(カール・ツァイスの実の息子ローデリッヒ・ツァイスは、1850年生まれのようです)に年の離れたアッベに、ツァイスは師として接し、アッベはツァイスの気持ちを汲んで研究を続けます。

やがてアッベの研究の成果によりカール・ツァイスは大きな商業的成功と科学的な成果を収め、1873年、ツァイスはアッベを共同経営者として迎えます。

(3)労働者のためのカール・ツァイス財団を創設したアッベ

アッベの父は工場労働者で、屈強で人情に篤い職工長であったそうです。しかし、連日の重労働のために急速に老いていき、それでいて給料は安く、苦しむ父の姿と貧困にあえぐ幼少期の経験が、アッベのその後に大きな影響を与えたようです。アッベの回顧録を交え、次のように書かれています。

アッベの父は、アイゼナッハの紡績工場で職工長として働いていたが、ほとんど毎日十四時間から十六時間も立ちどおしで仕事をしなければならなかった。普通の日でも、早朝五時から夜の七時まで十四時間も働きづめだったが、仕事が忙しくなると早朝四時から夜の八時まで、十六時間も酷使されたのである。息をつく暇もなく、昼食の時間さえままならなかった。弁当は立ったまま、機会にもたれかかり、木枠に寄りかかって急いでとるといったしまつであった。

「父は生来、腕力が強く、私よりも頭半分以上も大きく、ほとんど疲れを知らないほど元気のよい頼りになる人であった。それなのに、四十八歳のときには、疲れ果てて老人のように老け込んでしまった。父ばかりではなく、父の頑健な同僚たちも、まだ三十八歳という働き盛りだというのに、父と同様に老け込んでいた。当時の父にとって仕事がいかに過酷なものであったか、ご想像いただけるでしょう」

とアッベは当時を語っている。
(「カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史」p.23より)

アッベは父の雇用主に人並み外れた向上心と学力を認められ、奨学金を得て大学に通い、博士号を取り大学教授になります。

ツァイスに招かれカール・ツァイス社に参画するようになってからも、彼は「工場の労働環境を改善しなくてはいけない」と強い思いを抱いていたようです。1889年にアッベは、カール・ツァイス社を労働者のための財団として生まれ変わらせます。

1888年にカール・ツァイスが他界し、カール・ツァイス社は息子ローデリッヒ・ツァイスと、アッベが共同経営していました。アッベはローデリッヒを説得し、2人は経営者としての財産を手放し、財団を設立します。そしてカール・ツァイス社は、誰かの私有企業ではなく、労働者全員のための組織となります。

(4)「労働は1日8時間」。カール・ツァイス財団の先進的な制度

財団は、アッベの「会社は公共のものであり、労働者の共有物である」という思想に基づき設立され、当時としては先進的な社会保障制度を導入します。

中でも、「労働時間は1日9時間を超えてはならない」というのは、当時としては非常に先進的な労働者に優しい制度であったようです。さらに1900年には、1日8時間労働制になります。うらやましい。

(5)ガラス開発者オットー・ショットを、ほめて育てる

カール・ツァイス創業時の重要人物としては、カール・ツァイス、エルンスト・アッベの他にもう1人、ツァイスレンズの材料となるガラスの開発者オットー・ショットがいます。

1851年、ヴィッテンの鍛冶屋兼ガラス工の家に生まれたショットは、フランスでの修行などを経て、イエナ大学にガラスに関する論文を提出したことがきっかけで、アッベに出会うことになります。

光学ガラスの製造という未踏の分野に挑むことになるショットは、アッベの助言を得ながら試行錯誤を続けていきます。1879年、アッベは、ショットからの初めての手紙と、サンプルのガラスを受け取ります。

このガラスの出来は「求めている数値とはかけはなれていた」そうですが、アッベは、ショットを賞賛し、ガラスの測定はドンドンやるから、さらなる努力を期待するよ、という旨の返事を送ります(アッベの研究も最初はカール・ツァイス社の製品に直接は役立たなかった、というようなことが書かれているので、そうした経験もあってのことだと思います)。

この返事に発奮したショットはアッベに全幅の信頼を寄せ、精進を重ね、次々とガラスをアッベに送ります。そして1882年、ツァイスとアッベの助力を得てショットは最初の研究所を設立し、1884年にはイエナにガラス工場を設立します。そして、これがカール・ツァイス財団の一翼を担うショット社となり、次々と新型のガラスを開発していくことになります。

無理やり三國志に当てはめるならば、創業者のカール・ツァイスは劉備、数学者であり今日のカール・ツァイス社の基礎を作ったエルンスト・アッベは諸葛亮、ガラス開発のオットー・ショットは姜維という感じでしょうか。彼らは最終的に成功するので、そもそも蜀に当てはめるのもどうかという気はしますが。

Webでも読める「カールツァイスちょっといい話」

実はこうした創業のエピソードは、カールツァイスジャパンの会社案内ページにある「カールツァイスちょっといい話」のコーナーでも読むことができます。ツァイスにちょっと興味を持った方、あと、アッベのものすごいヒゲ面が見たい方は、ぜひどうぞ。

Welcome to Carl Zeiss Japan

上記の本では「創業・分断・統合の歴史」と銘打っているとおり、この後に分断や統合の話があります。第一次世界大戦の敗戦による不況にあたっては、カール・ツァイス財団を中心として国内で大規模な業界再編が行われます。

そして第二次大戦の敗戦時には、本書によると、まずアメリカ軍が(ソ連に分割されることが決まっていたイエナに)やってきて技術者と資料を西ドイツ領へ連れ去り、次にソ連軍がやってきて残りの技術者を連れ去り、最後に残った人たちがイエナ(東ドイツ)で再興した、というような話になります。

創業時のように強烈な個人のエピソードではなくなりますが、逆境に負けず何度も立ち上がるカール・ツァイスの姿には、とりあえず「ドイツすげえ」とでも言うしかないなという迫力があります。このあたりはいずれ、機会がありましたら……。