書評「ネット・バカ(ニコラス・G・カー)」
本書を読み始めたときに書いた「Winny無罪確定と「ネット・バカ」。そしてメディア論」で「ネットに耽溺していると長文を読んだりじっくり考えたりができなくなる、という主張を359もノンブルが打ってあるこの分厚い本で展開するのだとしたら、どういう自己矛盾的展開(ターゲット的に)なのだろう」てなことを書いていましたが……、
後ろの方のコラムで、
みなさんの考えていることはわかっている。この本の存在そのものが、本のテーマと矛盾しているのではないか。集中するのがそんなに困難で、ひとつのことを考えていられないのなら、少なくともまあまあ筋のとおった文章で数百ページもの本を書くことが、いったい全体どうしてできたというのか?
(「ネット・バカ」p.271より)
と書かれていてお茶吹きそうになりました。
そこには、本書の執筆にいかに苦労したかが綴られています。ネット環境の悪い山の中に引っ越し、各ソーシャルメディアを停止し、“ブログにホコリをかぶらせ”、メールアプリの自動チェックを毎分から1時間、いよいよ注意力が散漫になるときには止めたそうです。それでも執筆の終わりが見え始めたらネットに逆戻りして……最後には“白状せねばなるまい、これはクールだ。これなしで生きていけるかどうか、正直自信がない”とコラムを締めくくっています。
本書は、インターネットやソーシャルメディアやハイパーテキストが人の注意を散漫にし、認知的な負荷を増し、思考を浅薄なものにし……と、知的なツールと思われがちな最近のデジタル技術がむしろ人をバカにしているよ、という警告をする内容です。
しかし著者自らが体を張って示しているように、この変化は避けがたく、最後は、今は過渡的な状況にあり、われわれは“たとえば「六種類のメディア上で同時に三四個の会話を交わす」能力を手に入れることだろう”と、少々開き直りのような雰囲気も持ちつつ結んでいます。
メディア史と脳科学や行動心理学の類を反復横跳びのように行き来しながら展開する話はダイナミックで興奮させられるものですが、若干、科学側の記述が強めに丸められいて、何となくはわかるけど根拠がキッチリ分かった感じがしない、という印象が残りました。あまり掘り下げすぎてもリズムが悪くなるのかもしれませんが。
記述についてとは別に、本書に書かれた内容は、今後さらに詳しく検証されることが期待されます。例えば「ハイパーテキストは認知的負荷が高く、かえって学習効果が下がってしまう」という話がされるのですが(p.178近辺)、個人的な感覚としては、学習の段階によって一本道のテキストが有効な場面と、ハイパーテキストを有益に利用できる場面があるように思います。
まったくの初心者であるときには一本道のテキストを読み、基礎知識がついたら自ら試行錯誤しつつハイパーテキストで学び、といった段階がイメージされ、それはティーチングとコーチングの関係のようなものではないかと思っています。ですが本書では、どういうレベルの学生にどういうハイパーテキストを与えたか、といったことは書かれておらず、どうもモヤッとした感じが残りました。
といった細かい点はさておき、大筋において本書で書かれた内容は、ネットに深く入り込んでいる人であればあるほど、気にしておいて損のないものです。デジタルやネットの効用についてもともと慎重な人でないと、こういう本は手に取らないだろうなあ……とおいうジレンマがあるのではないかと思いますが。
- 2012.01.28
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