自己肯定感と育児について、振り返り  

「コミュニケーション」というテーマについて書くのは大変に骨が折れるもので、つい後回しにしてしまいがちなのですが、改めて腰を上げて書いていきたいと思います。

ここ数年で最も力を入れていたのは、育児でした。なぜかといえば、私の性分としてのある種の手抜きのできなさがあるのと、いわゆる「育て直し」的なものへの強い関心があったためです。子育てによって自分が何かを得られるのか、何か変われるもんなのか、といった。

とはいえ、育児の話ってある程度以上に深いところは書くのがめんどくさくて、自己陶酔的になったり露悪的になったりしている文章を目にすることも多く、それにコメントで変な突っ込みが入る例もよく見られます。また「やったこと」がシンプルに「結果」に結びつくような簡単な因果関係ではなくて「やらなかったこと」とか「意図せず起こった何か」なんかも複雑に絡んでくるはずで、そして、あるタイミングで「この育児への取り組みは成功でした」なんてを言うことにはあまり意味がないんだろうなあと思うんですが、そういう性質の話であることを踏まえつつ、書いてみます。

「自己肯定感」とはなんぞ

子どもが生まれるというとき、この子は自己肯定感を持った子に育てなければいけないと考えました。

「自己肯定感」とは、ありのままの自分をそのまま受け入れられる感情のことです。自己肯定ができないと通常の自己評価がマイナスになってしまい、他者との関係を作ることもうまくできず、人生が根本的に苦しいものになります。何もしていない状態の自己評価が少なくともマイナスにはならないなら、自己肯定感がある、と考えていいのではないかと思います。

「自己肯定感」とか「自己評価」という概念を得てから世の中を見てみると、なるほどこれなしに他の人といい関係を築いたり、自分を前向きに成長させていったりするのは困難だと考えられます。だって基本「自分はダメだ」と思っていたら卑屈になってしまったり、まず自分を否定するところから入ってしまうわけで、それは人生遠回りせざるを得ないなと。

自己肯定感をはぐくむために「期待に応える」ことの3段階

では、自己肯定感を持った子に育てるために何をするべきか? 一言で言えば「期待に応える」ということになると考えます。

昨今ではよく目にするようになった気がする「泣いている赤ちゃんを放っておいてはいけない」という話。赤ちゃんは何らかの要求があって泣いているわけですが、泣いている赤ちゃんを放っておくと、だんだん泣かないようになるそうです。が、それは決して我慢強くなったからではなく、自分がいくら要求しても誰も相手をしてくれないと諦めてしまうからだと言われます。で、自分なんか面倒を見て貰えないんだ……と自己肯定感を失ってしまうそうです。

生まれてから2歳ぐらいまでは、ひたすら「泣く赤ちゃんの問題を解決する」ことをやっていきます。が、最初は何を期待し要求されているのかよく分からなくて、息子が退院してきた直後に妻が通院か何かで家を空けたときに泣かれて、「付き合いが短いから何を言ってるか分からんわ……」と途方にくれたことを、よく覚えています。2、3日もしたらだいぶ慣れましたが。

2歳を過ぎると、親に要求される課題がランクアップします。言葉を覚えて知恵がつき、最低限の「してほしいこと」以外にも、いわゆるわがまま、または嗜好としての「してほしいこと」を主張をしてくるようになるためです。

そうなると、要求に対して「やってあげるべきこと」「やってはいけないこと」「やってあげられないので我慢してほしいこと」を親が適切に区別して、やってあげるなり、注意したりしかったりするなり、諭したり謝ったりするなりしないといけません。

親の判断基準がブレて、昨日はやってくれたことなのに今日は怒られた……なんてことが続くと、子どもは混乱するのだそうです。ここでは「甘やかさずに甘えさせる」という「子育てハッピーアドバイス」の極意を常に意識することになります。

子育てハッピーアドバイス
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というか「自己肯定感」についてのわかりやすい説明も、「泣いている赤ちゃんを放っておいてはいけない」という話も、主にこの本で学びました。

3歳から上になると、もう1段階課題がランクアップします。親の側から、それなりに難易度の高い「やらせたいこと」が出てくるためです。トイレで用を足せるようにさせ(オムツを卒業させ)たい、ハシを使えるようにさせたい、自転車に乗れるようにさせたい、等々です。

こうしたことは親の力で強制的にやらせることも不可能ではありませんが、お互いにしんどいし(たぶん自立心旺盛な子の場合は特に)、本人が乗り気でないなら習得も遅く、また、できたときの達成感(=自信。自己肯定感の素のひとつ)も得られないと思われます。親の「やらせたい」が子どもの「やりたい」になるように、説得したり、気分を乗せたり、うまく『ご褒美」を設定したりといったことができるとラクです。

親が自己肯定できないと始まらない

と、淡々と書くと書くと簡単そうな話ですが、これを何年も続けるのは簡単な話ではありません。親が自己肯定感を持っていて、精神的に安定していないと、そもそもうまくできないと思われますし、乳幼児の「期待に応える」ってことには大量の時間と体力と、多少の知恵が必要になります。私はすっかりリソース節約のため「(他の)手に余りそうなことには手を出さない」というスキルに磨きをかけつつあります。

自己肯定感をめぐるあれこれの先を見てからぐるっと戻って

そんなこんなで、自己肯定感をはぐくむ、という目標で育児に取り組んだ結果が今のところどうなのか、というのはよくわかりませんが、また別の方向で興味があるのが、大人の自己肯定感のはぐくみかたです。その中でも特に関心を持っているのが、サードプレイス的な意味でのネットの役割です。

ネットで時折「承認欲求」という言葉を目にします。その概念をよく理解していませんが、他者からの「承認」がないと自分はダメだ、という思考になってしまうと、無間地獄に入り込んでしまうことになるのかなと思います。おそらく他者からの肯定的な評価というのは、それを求めてもがけばもがくほど得にくくなるものだと思うので。

また、最近のネットでは、弱い紐帯——いわゆる「ゆるいつながり」を組み込んだサービスが主流になっています。しかし、ずっと自分の心の中にとっておいて、長く自己肯定の元になってくれるような感情というのは、強い紐帯から得られるものが圧倒的に多くて、先の他者承認の欲求と合わせて、昨今の「ソーシャルメディア」は自己肯定感の元を得にくくなっているように思われてなりません。

もっとも、昔からそんなもんだったという見方もあると思うんですが、今ほどゆるくて広いつながりのなかった昔には、随所にエアポケットみたいな濃いコミュニティがあって、狭い社会ならではの互助的な相互作用があったような気がします。このあたりは「昔はよかった」話でなくて、都市空間の設計みたいな話として。

話を大きくすると、自己肯定感というのは「まっとうに生きようという意欲」に繋がります。例えば私が今年に入ってから取り組んでいる習慣作りのような「簡単ではないけれどやった方がいいこと」に取り組むためには必要な感覚だと思います。視点を変えると「すり減っていく自分」を止めるためにも必要で、あらゆるテーマにおいて、前向きに進むための原動力になると考えていいのではないかと思います。

そのように重要なものなのに、自己肯定感という概念は、まだまだ共有されていないように見えます。おそらくは、ある人はそういうものが「ある」ことに、ない人はそういうものが「ない」ことに気付いてないことが多く、どちらにしてもそれが当たり前になっているからではないでしょうか。

何しろ自己肯定感/自己評価は物心のつく前の幼児期に周囲の環境によってベースが作られてしまい、またその環境(ファーストプレイス、セカンドプレイス)は大人になるまで大きくは変わらなくて、気付くのが困難だと思うので。

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