「ソーシャルメディア」とは何なのか? とTwitterの話  

先日、その方面では第一人者と言っていいだろう人が「ソーシャルメディアというものが最近ようやく分かってきた気がする」というようなことを言っていて、ちょっと驚きました。

もちろん、こういうのは一旦分かった気になっても、ある日やっぱり分かんねーなー......となり、後日また分かった気になり......を繰り返すものだと思うので、その人が何周目の「分かった気がする」にたどり着いたのかは、定かではありません。

「ソーシャルメディア」というのは単にマーケティング用語の目新しいやつである、というシニカルな解釈もあるかと思いますがそれは置いといて、少し前まで「CGM」だ「UGC」だと呼ばれていたものが「ソーシャルメディア」と呼ばれるようになったことには、「繋がり」の持つ意味がクローズアップされてきたことがあるのかなと考えています。

ノード(点)とリンク(線)でネットワークが構成されていることを考えるとき、従来の「CGM」というのは、ノード=小さなメディアとその読者という完結した世界だけを注目しがちでした。しかし、リンクがあってこそのインターネットメディア、という認識から使われるようになったのが「ソーシャルメディア」と考えると良いのかなと思っています。

「繋がり」というのは「離れていない」ということであると同時に、「一体化していない(1つのノードとしてまとまっていない)」ということでもあります。自分とAさんとは50%、Bさんとは80%、Cさんとは10%ぐらい繋がっているけど、ほかの部分は離れている。決して同じ組織にまとまって四六時中一緒にいるみたいなことはしない。離れている間のAさんBさんCさんに、意味があることをちゃんと認識している、というあたりが重要なのでしょう。

これは、そこらでちらりと読んだ話の受け売りですが、日本は、どうしてもその点で「一体」であることを求めがち。一方、欧米ではそのあたり、他者は他者であり、どう「繋がる」かが問題だと認識しているのだというところで、何か認識を改めるべきことがあるのかなと思います。

Twitterというのは、なかなか「一体」であることを許さないメディアです。四六時中の「なう」を吐き出す中で、リアルの生活空間を一緒にするわけでもない者どうしが一体感を持つことは、まず無理です。いくら好きで同意・同期・同調したい相手がいても、明らかにその相手と自分は一体ではないことを思い知らされるというか、そもそも「一体」の幻想を抱くことすらさせてくれません。

このあたりが、もしかしたらよく言われる「Twitterはゆるい」の理由なのかもしれないなあと思いました。

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