参加の容易さとコミュニケーションの非対称性。参加機会の均一化より棲み分けか  

子どもたちの遊びの輪に加わらない(加われない)子がいて、その子の手を引っ張って輪に連れて行くような行為は、「みんな仲良く」という視点からは間違いなく良い行いなんだけど、実際には、その場の全員を不幸にしてしまうことが多い。

「学級」というシステムは、教える側の都合から考えられたシステムだそうです(参考書籍「<学級>の歴史学  柳治男 著」)。先述の「みんな仲良く」というのは誰の視線なのか? というと、その教える側、教えるシステムの後ろにいる側(親)のものでしょう。だとすると「みんな仲良く」というのは、児童生徒の都合を無視した、システムの支配者にとって都合のよいイメージでしかない、とも考えられる。

無理やり機会の均一化を図ってもろくなことにならない

しかし、聞き分けのよい、先生に忠実な、中途半端に空気の読める「良い子」ほど、その手を引っ張る役割が必要だと考えてしまって、結果的に率先して不幸な役割を引き受けてしまうことがままあると思います。でも、それは実は「良いことではない」と考えられれば、スッキリするのかもしれません。

もちろん、流動性・多様性のない社会や組織内においては、同じ釜の飯を食う的な「みんな仲良く」が重要だと思います。しかし、これからは流動性・多様性の時代。無理に仲良くするのでなく、違いを認めつつ、そこそこうまくやる。ドッヂボールよりも図書室で本読んでるのが好きならそれでいい、必要以上に干渉しないで棲み分ける、てなことが大事なのでしょう。

そんなことを、このログを見ながら思いました。 Togetter - まとめ「佐々木俊尚氏、東浩紀氏、KAWANGO氏によるハッシュタグから発したネットの公共性に関する鼎談」

機会を均一化はもう考えずに、積極的に非対称性を取り込むのが良いかもしれない

以前に「twicco(特定のアカウントが、そのアカウント宛の発言を仲介してフォロワー全員に流す、RTマシンみたいな機能)」はTwitterの中に掲示板のようなコミュニケーションを持ち込むのでよろしくない(Twitterの特性を殺す)、という批判を見たことがありますが、ハッシュタグでも同じような状況が起こるという指摘が、上記のログでされています。ハッシュタグには情報を集約するという機能もあり、テーマやメンバーによる面はあるかと思いますが。

Twitterは、どうにもならないほどの流動性・多様性を簡単に体験できるメディアです。そして、ある程度コンテンツ力のある人は、非対称なコミュニケーションにならざるを得ず、そこで無理して機会の均等化を図るとオーバーフローしてしまう。

ソーシャルメディアでは、参加が容易なほどコミュニケーションが非対称化する仕掛けにして目立つ人の参加コストが上がらないようにする、ということが必要なのかもしれません。

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