書き言葉が強い破壊力を持っていることと、ブロガーの孤独について  

<高1自殺>ネット上に「死ね」と書かれ苦に 北九州(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

週末にこのニュースを目にしたときには大いに戸惑った。ただ平和に何の変哲もないブログを書いていたはずの高校生が、見ず知らずの何者かによって書かれた「死ね」という言葉の力によって自殺に追い込まれてしまったという、文字によるテロ事件のように読めたからだ。

ちょうどここのところ、文脈を共有してないところから投げつけられるネガティブな言葉の気持ち悪さ、怖さについて考えていたところだった。私の場合「はてなブックマーク」界隈はよく見ているので、そこでのいつものメンバーのいつものネガティブ発言はある程度理解できるが、全く知らないところからのネガティブな言及は、その意味をうまく理解できず、暗闇から例えば「何だか分からないがネットリしていて生暖かく微妙に生臭い臭いのするもの」でもぶつけられるような恐怖を感じる。暗闇から「死ね」という文字を投げつけるようなテロによる事件というのも、あり得ると思った。

だが他社の報道など見ていると、どうやらそうではないようだと分かった。自殺した女子高生は書き込みした人間を特定していたようであり、また、同級生が書き込んだと申告しているそうであり、これはそういう不気味かつ奇想天外な事件ではなく、比較的よくある人間関係のトラブルであるのだと理解した。そして、この問題について何かしら考えることができる、と認識した。同時に、この種の事件について聞くたびに思うやりきれなさにも囚われたのだが。

書き言葉はとても強い破壊力を持っている件

先のエントリーは、何かしらを考える準備として書いた。

では何を考えようか。まず、書き言葉の「強さ」についてだ。言霊というとオカルトめくが、何かしら言葉の力がその場で熟成されるような効果があると思う。記憶から参照することになる話し言葉より、何度もオリジナルを見られる書き言葉の方が、そのたびに強い刺激をもたらすと思う。

先のエントリーに書いたように、言葉を受け止めた後でその主と会話し微調整していく機会がなければ、自分の中でそれを咀嚼していくしかなく、時に悪い方向への想像が止まらなくなり悶絶することにもなる。良い方向へ転がって「いつも読んでます」の一言で1日ニヤニヤ過ごせるブロガー、なんてのもいるけども。

こういうことを感覚的に分かっているからこそ、表現をやわらげるために顔文字や絵文字が発達したのであり、若いブロガーの多くが「これ自分の独り言っスから気にしないでください」的な散文詩みたいな文章を書くのであり、メールに即レスしなければならない暗黙のルールがあるのであり、メールのやりとりを切るのがためらわれたりするのではないだろうか。

書き言葉が人の心に残すものについて、そして、その書き言葉を誰もが容易に、大量に高速に扱える時代になったことについて、もっと掘り下げて考えるべきであるように思う。

顔見知りと見ず知らずの他人、それぞれによる書き言葉の受け止めにくさについて

よく口頭で会話する顔見知りと、文字でコミュニケーションを取る機会は意外と少ないものだ。そうすると、話し言葉と書き言葉で感じの違う人、というのがいる。パソコンの前になると人格が変わるような人もいるかもしれない。そういう人と対面とネット双方でコミュニケーションを取るというのは、二重人格者を相手にするようなものなのではないだろうか。

いわゆる「ネットいじめ」もいろいろあるだろうが、意図的ないじめではないけど人間関係がとてもしんどい、ということもいろいろあり得る。このへん、人間関係がリアルと近い学生とか、地域SNSなんかで特には注意すべきではなかろうか。

一方で、文脈を共有していない見ず知らず他人から発せられる言葉の受け止め辛さ、というのも問題になる。例えばギャグとしての「死ねばいいのに」はその前提を知らず文字通りに受け止めればとんでもないこと、みたいな問題だ。

そしてまた、相手も自分の文脈を共有していないから、そこからの反論・議論が実りあるものとなる可能性は低い。不毛だ。この不毛さはけっこうマジで気力を奪う。「死ね」という言葉が生きる気力を奪うことだって、あり得る。

ブロガーの孤独について

この事件を受けて「極東ブログ: もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。」というエントリーが書かれていた。関連して思うところは諸々あるのだけども、とりあえず「ブロガーの孤独」なるものについて、少し考えてみたい。

長く引用します。

3点目のお勧め「自分を受け入れてくれるコミュニティを持ちなさい」は、サットンのお勧めのアレンジです。ブログというのは、やってみるとわかるけど、奇妙に孤独な世界です。いやそんなことはないという人もいるかもしれないけど、少なくとも、ある一定以上の人気が出ると、それに比例して奇妙な孤独がやってきます。そんなこと言える? ええ、私がそうですよ。

ブログのない時代は、表現者であることは、同人誌や地下出版くらいでしか可能ではありませんでしたし、それらは、受け入れてくれるコミュニティも付随していました。だから内輪揉めとかもっと凄惨なこともあったけど、それはそれなりにコミュニティはあったものです。でも、ブログというのは、やってみるとわかるけど、奇妙にぞっとする孤独があるものですよ。それがなさそうな人もいるけどね。極東ブログ: もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。

ブログ書きというのは孤独だなと、私も感じたことがある。私が感じた孤独感はfinalventさんが仰る「ある一定以上の人気が出ると、それに比例して奇妙な孤独がやってきます」というものとはちょっと違うかもと思うけども、自分のブログの(もしくはブロガーとしての)アイデンティティを確立する(ここが≒アクセスを増やす、人気ブログを目指す、というところかもしれない)というのが、自分にとっては他者との差異化を行なうことであり、結果、わりと近いネタを扱うブロガーとも同ぜず和すこともできずな自分をどんどん発見して、うーん何だこりゃみたいな感じを味わったことがある。

また一方で、前述したような文脈を共有していない見ず知らずの他人とコミュニケーションすることの面倒くささや恐さ、また意図したことの読み取られなさから孤独を感じることも多い。

一方で、ブログでなくTwitterみたいなコミュニティ感のある媒体だと(もしくはBBSやチャットにまで回帰しちゃうと)、もっと同じて和していく方に動くことでアイデンティティが確立できて楽しいし文脈を共有した濃いコミュニケーションもやりやすいので、そういった場で活動しつつブログも書きつつ、というスタンスでネット上の活動をするのが良いように思う。最近少しずつオフ会などに参加するようになって、その効果で上記のような変な孤独感を感じる機会はかなり減ってきたと感じている。

こういう場があることは、「書き言葉の受け止めにくさ」の軽減にも役立つ。ぐるっと回って引用した“3点目のお勧め「自分を受け入れてくれるコミュニティを持ちなさい」”に繋がるか。

ぎゅっと抽象化してしまうと、このへんの問題は「自分にとってブログとは何か?」ということになるのだろうと思う。自分メディア兼自分がホストのサロン(コメント欄で交流)のようなイメージで考えるのであれば、コメント欄の管理にはかなり気を配るべきだろう。そうでなく、自分メディアとのみ考えて、交流は一定の知り合いだけどTwitteあたりで「今度こんなの書いたんだけどどうかな?」みたいな形でやる、というのもアリだ。だとすればコメント欄は必要なくなる。また、コメントをニコニコ動画のアレのように捉えている人なら、単純に放置でも気にならないのかもしれない。

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