昨今の「ケータイ世代」論に感じるモヤモヤについて

規制法案がらみやケータイビジネスへの注目の高まりから、「ケータイ世代が分からないPC世代のためにケータイ世代を解説するよ」的記事がまたぞろ各地に登場している。

この手の記事は、表層的な事象の解説はあっても、どうも「なぜ」の掘り下げが足りないように感じられてならない。意図的に抜いている? という気すらしてくるが、非常に難しい課題だろうから、やはり掘り下げが足りないということかなと思うし、上記にリンクした連載記事の今後で、掘り下げられるのかもしれないが……。

ケータイが持つコミュニケーションの「近さ」と「途切れなさ」

例えば「ケータイ」のコミュニティサービスの特殊性について。個人的な(わずかな)経験から言えば、コミュニケーションツールとしてのケータイとPCの違いは、心理的な「近さ」と「途切れなさ」にある。

画面が狭いとか入力しにくいとかは問題じゃない。ずっとガラスケースに入っていて実際に触れないピカピカキラキラな人形と、いつも抱っこして一緒にいたボロボロの人形で、どっちに愛着が湧くか? という話です。

PCはたいてい椅子に座って、モニターとは数10cmの距離を置いて向き合いながら利用する。また、相手はたいていデスクトップの一角に存在していて、視界の中には他の情報も見えるのが普通だろう。そして、PCを介してのコミュニケーションは、電源を切ったところで絶たれる。オヤスミを言ったらPCは机の上に置いて、自分はベッドで眠る。物理的に距離が離れる。

ところがケータイの場合、デバイスは常にポケットの中、枕元などごく近くに置かれる。お風呂でケータイとかいう利用シーンも十分アリだろう。また、ケータイを注視するときは、視界の全てをあの狭い画面が占めるようになるのが普通だ。

そして、ケータイを介したコミュニケーションは途切れない。寝るときにケータイの電源を切る、という人はまずいないだろう。PCのチャットルームの「おやすみ」は本当のおやすみじゃないけど、ケータイメールの「おやすみ」は本当のおやすみでしょう。

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そして、その他の要素

ケータイというデバイスの特殊性は、「使ってみないと分からない」ものの類であると思う。そして、私もそんなに使いこなしているわけではないので、分からない部分が多い。

他の要素のひとつに、若者(というか小学生~高校生ぐらいの子ども)ならではの行動特性や価値観がある。この世代の行動特性の話の一例として、「禁止されればされるほど対象を魅力的に感じる」という心理的リアクタンスは、ティーンエイジの頃が最も強く表れるとか(「影響力の武器」より)。この点から考えれば、大人の感覚による単純な「規制」の押しつけが、いかにうまくいかないかが予想できる(それでも、規制するしかない場合もあるかもしれないが)。

また、どこで聞いたか忘れたが、「子どもは好奇心が旺盛」というイメージを持つ人が多いけど本当は非常に保守的で、いちど気に入ったものをトコトン食べ続けたり、異分子を排除しようと必死になったりするのはその現れだと聞いたことがある。他にもいろいろあると思う。

行動範囲の狭さ、所属する「学級・学校」というコミュニティの特殊さも考えなければいけないだろう。

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そして、可処分所得の少なさ(ネットに繋がるガジェットをバンバン衝動買いとかできない)、簡単操作で少額課金できるケータイサービスの特殊性などが加わって、子ども向けケータイビジネスが成立してるんじゃないのかな?

デバイスの特殊性 + 子どもの心理・行動 + ケータイ業界のビジネス事情

という、3方面への深い理解があって初めて、ケータイ世代への理解が生まれるように思う。私もさらに考察していきたい。

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