「空気」に関して少し調べたことといくつかの仮説  

「ひとの気持ちを考える」から「空気を読む」へ変わる時代の空気」の続き。コミュニケーションにおいて他者の気持ちを想像するというのは重要であるが、それが「ひとの気持ちを考える」から「空気を読む」ということに変化してしまっているのではないか? というのが仮説1。

とりあえずYahoo!ブログ検索のグラフなど見ていると、空気を読むの読めないのといった言葉の使用頻度が右肩上がりに上がっているのが見て取れる。

ひとの気持ちを考える、というのはコミュニケーションの相手に対する想像であり、言い方を変えれば「思いやり」とか「気遣い」というものにあたるだろう。

一方で、空気を読むというのは基本的に複数人の集まる場で使われる言葉だが、相手そのものというより、誰のものでもない「全体」に漂うモノを察知するということ。そこには「計算」や「策略」めいたものも入ってきて、コミュニケーションが政治力のゲームになってきているのかなあ、といったことが仮説2。

先の記事にも書いた通り「空気を読む」というのは新しい概念ではない。いわゆる「空気」というモノは昔からあったが、空気を読むことが常識であるかのような空気になってるのは最近のことではないかと思う(今のところ、根拠はあまりない)。

Wikipediaに「漫才やコントなどをやる芸人が使う業界用語だ[要出典]と主張する者もいる」という記述があるが、ライブで芸事をやる人が場の空気に敏感になる、というのは納得感のある話だ。

そして、「空気を読む」ことの要請が強まった背景として、人間の多様化→わかりやすさを求めての「キャラ」化→芸人化→「空気」という話だと、出来過ぎか。

場の空気 - Wikipedia

インターネットでは、異なる空気を持つコミュニティを簡単に人が横断でき、各々のコミュニティにおいて「空気嫁」と言いたくなる異分子がやってくる、ということが増える。そこで「空気を読むの読めないの」が常用されるようになった、という背景もあるだろう。

他の言い方をすれば「察する」ということだ。

この「察する」という能力は、
昔は、みんなにあった
ということになっている。
みんなが察し合うコミュニケーションをしてきた、と。
<空気を読む> ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラム

ここでもWikipediaと似た話で「空気を読むということは暗黙知である」というような話になる。

参考:

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