日本の将来は「多様性の受容」にかかっている  

こちらを拝読しての雑感。とりあえずは、これといった客観的な根拠のない印象論だが。

豊かな時代の教育とは:「こいつらにはやっぱかなわねー」と思うこと(Tech Mom from Silicon Valley)

今日も今日とて、息子の学校での「対策会議」に行ってきた。ウチの子の学校は、アメリカの中では「レベルが低い」と言われるカリフォルニア州の、お金持ちでもない小さい学区のフツーの公立校。それでも、いつも対策会議のたびに、そのノウハウや仕組みにいちいち感心してしまう。

「豊か」=「経済的に豊か(金持ち)」という意味で仰っているのか? な? 単純にそうではないというニュアンスにも読める。私はこれ、人間の多様性に関して理解があり、受容できているからこそのことであり、経済的に豊かかどうかとは、直接の関係はないと思う。もちろん、貧困にあえぐ国では難しいことではあるが。

欧米の社会についてよく知らないが、人種が多様で、また異民族・人種間のいろんな意味での交流(交易から戦争まで)の長い歴史とノウハウがあるから、他者を画一的な型にはめることにこだわらず、他者の異質さについて理解し尊重しようという気質があり、そのための技術が発達しているんじゃないだろうか。

日本の場合、欧米と比較して「皆と同じ型にはめて安心する」という気質が強いように思う。安倍内閣が浅薄な「親学」なんてのを全国の親に押しつけちまおう、なんて考えてしまうあたりは、その典型といえる。

異質なものを見つけたら攻撃し、「教育」し、手懐け、自勢力に取り込んで、型にはめようとする。型というのはある意味大事ではあるが、型にはめたところで終わって応用編には行かないからタチが悪い。

教員の指導マニュアル(指導要綱?)だって、「一定の目標→個別の他者への理解→理解に基づいた目標に向けての指導」というステップでなく、「皆こうあるべき論→一律の指導」というフローになってんでねえの?

このあたり、「好きを貫け」論とか「Wisdom of Crowds」論とも多少リンクしてくるのだけども、日本社会の中で突き抜けられるのは、「型にはまったフリ」ができ、さらに、その上で突出した何かができる人か、フリはできないけど運が良かった人に限られるのではないか。「個性」という言葉を「個性」ではなく、「型」の上に乗っかる「スーパーマン性」を指してい言っている人が多いような印象を持っていたりもする。

もっと変人を変人として受け入れ、多様性を受容できる社会でないと、やられるときにはまとめていっぺんにやられてしまうかもしれない。

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