ネット時代に生まれる、新種の「田舎の秀才」について  

情報過多な時代では、情報が多すぎるために視野狭窄を起こしてしまう、という問題については以前にも軽く触れたことがある。これに「田舎の秀才」という言葉で具体的なイメージを作れそうなので、ちょっと整理&考察してみたい。 似た意味の言葉で「井の中の蛙 大海を知らず」というのもあるけど、こ...

情報過多な時代では、情報が多すぎるために視野狭窄を起こしてしまう、という問題については以前にも軽く触れたことがある。これに「田舎の秀才」という言葉で具体的なイメージを作れそうなので、ちょっと整理&考察してみたい。

似た意味の言葉で「井の中の蛙 大海を知らず」というのもあるけど、この言葉から喚起されるイメージはリアルでない(何しろ井戸でカエルだし)。より具体的な人間像が見える言葉として「田舎の秀才」を使いたい。

なお、「井の中の蛙〜」は主に狭いコミュニティ内での権力者、という意味で、自意識や能力の問題が主になる「田舎の秀才」とは問題が違う、という解釈もできると思うが、以下ではこのあたりの権力、能力(知)、自意識の問題をゴッチャにして扱う。

「田舎」とは、「田舎の秀才」とは何か?

「田舎」にもいろいろな意味があるが、ここでは、都会(中央)から物理的に離れており、人口が少なく、情報流通も少ない地方、といった意味で捉える。

田舎で秀才だと持ち上げられる人が、都会でも通用するとは限らない。田舎は情報流通が少なくて最新情報の収集という意味で不利になりがちだし、十分な競争が行われないことが多いので、良い素材でも十分に磨かれない(100人の中での1位が、1万人の中の100位以内に入れるかというと、たいていは入れないだろう)。

その一方で、実力以上に持ち上げられてプライドだけが高くなりがちだ。そして、田舎には多様性がない(たいていの田舎では、地方によりほとんどの家が稲作、漁業、養蚕業など、一定の産業に従事しているため、生き方の多様性がない。また、単純で強い権力構造で社会ができている場合が多く、考え方の多様性も育ちにくい)ので、(都会から見て相対的に)偏った価値観を持つことが多い。

と、いうのが「田舎の秀才」像のステレオタイプか。もちろん実態は一律でないが。

ちなみに、この言葉は他者を揶揄する文脈で使われることはあまり多くないように思う(そういう場合はもっと強烈な言葉が使われるのだろう)。一定の成功を収めた人物が、高校や大学に進学したときに経験した挫折を振り返って「自分は田舎の秀才だった」と語ることが多いようだ。

一方で、挫折からうまく立ち直れない「田舎の秀才」も当然おり、そうした人が心を病んでしまったり、罪を犯してしまったり、といった話も聞く。

新種の「田舎の秀才」はどうして生まれるか

ネットの普及によって、ネット上では「情報流通が少ない」ということは起きなくなった、と思われがちだが、実際にネットで暮らしてみると、別の意味で情報流通が不十分になってしまいがちである。ただ、この「不十分」には気づけないことが多い。

ネットワーク分析風に言えば、昔の「田舎の秀才」は、田舎ゆえの(リンク可能な)ノードの少なさから生まれた。

一方で、今の田舎の秀才は、ノードが多すぎる中で、自分のリンク(リンクに使えるリソース。例えば時間や思考力)が不足することから生まれる。仲間内でのTwitterやら、2chのどうでもいいログやら、はてなの論争やらに時間を浪費するうちに、いつのまにか1日が終わっている、というような状態だ。

人は易きに流れがちであり、リンクを構築するためのリソースは、うっかりしていると野次馬的なことや居心地のいいぬるいコミュニケーションに浪費されがちである。そして、易いネットワークから満足感や有能感を得ていると、それでも自分のリンクは(アテンションは、と言い換えてもいい)十分に埋まってしまうため、なかなか「易きに流れているな」ということに気づけないこともあるだろう。

こうなると、情報環境としての「田舎化」ができあがり、

  • 全国的に見るとたいしたレベルではないが、狭いコミュニティ内では群を抜いた能力
  • それゆえの、間違った全能感、高すぎるプライド
  • 偏った価値観

を持った「田舎の秀才」が生まれる。この新手の「田舎の秀才」の、もうひとつの特筆すべき特徴は、都会のド真ん中に住んでいてもソレに成りうる、という点だ。

このあたり「社会の断片化」といった言葉で語られるものと同じようなものだと思う。

新旧をかけあわせたハイブリッド型「田舎の秀才」の可能性

ところで、田舎は今でも田舎である。田舎(故郷であり辺境である、ダブルミーニングでの田舎)に住んでいる私の兄弟はまだ誰もインターネット環境を持っていない。と、この前聞いて驚いた。地方によっては「インターネットをやってる(パソコンで)」というだけで、ハイカラさん扱いなところもあるだろう。

そうした中で、田舎のハイカラさんが集まってネット上にコミュニティを形成しちゃったりすると、新旧の概念をかけあわせたハイブリッドな「田舎の秀才」が生まれちゃったりもするのかもしれない。

田舎も、田舎の秀才も全否定されるべきものではない

それにしても、「田舎」も、「田舎の秀才」も、全否定されるべきものではない。

視野が狭く、その中で有能感を持ってしまうこと=「田舎の秀才」とライトに定義する場合、人はおそらく、誰でも「田舎の秀才化→もっと広い視野を得て軽く挫折→己を成長させる」を繰り返して生きていくと考えていい。だから、「田舎の秀才」状態であることを必要以上に恥じることはない。

また、田舎には田舎なりの良さがある。地域の特性(気候とか土地の質とか)に合わせた風習や価値観=文化があり、それは、一律に「都会」の文化で塗り替えれば良い、というものではない。

世の中は今後も断片化が進むはずであり、都会は相対的に都会(多数派)であるだけの存在だと、謙虚に考えるべきだと思う。「都会流と違うから」というだけで田舎流を嘲笑したり非難したりすべきでないし、アメリカ的なグローバリズムが必ずしも全世界的に歓迎されているわけではない(このあたりは全然詳しくないが)、ということも考えておくべきだろう。