河合隼雄「大人になることのむずかしさ―青年期の問題」
河合隼雄大好きっ子を自称しつつも著書は数冊しか読んでいないのだけど、ある日のAmazonの注文レポートに、どなたかが注文したらしいこの本があったので速攻で買った。
本書は、これから大人になるべき青年を導く立場にいる大人たちに向けた内容となっている。私は今のところ青年を導く立場にないが、我が事として、ずっと「俺って心の病院に行ったらどんな病名がつくんだろう?」的な興味と不安を持っており、そこらへんで河合先生のおっしゃる「大人になることのむずかしさ」を自分は乗り越えてんのか? 大人を自称してええのか? といった興味があり、注文した。
岩波書店 (1996/01)
売り上げランキング: 36628
「大人になる」とは、どういうことか?
古代においては、社会の枠組みは一定であり、子どもは社会が決めた何らかのイニシエーション(通過儀礼)を経験するとによって社会に受け入れられ、大人になっていった。
ところが現代では、社会の枠組みそのものが変化を続けており、何か特定の手続きをもって「大人になった」となることはない。現代においては、青年はいくつもの「つまづき」――例えば事故、両親との諍い、犯罪にも至りうるトラブル、病気、失恋や就職の失敗といった挫折――を経験し、それを克服することによって、少しずつ大人となっていく。
では、つまづきを克服するためには何が必要か。つまづきの「意味」を探りなさいと、先生は説く。
「つまづき」の事象を表面的に捉えるのでなく、原因を探るだけでもなく、意味を探る。なるほど意味かーそうだね大事だねーと分かった気になるのは簡単だが、実践の場でそれをやるのは、容易でないだろう。
家出少年の「意味」を探り、対決せよ
冒頭に登場するのは、それまで品行方正・成績優秀のいい子であった高校生が、突然に家出をしてしまい、両親が相談に来た、という事例だ。
河合先生はまず、高校生の両親に「家出とは何でしょうか?」と質問したという。答えられずにいる両親に、先生はヒントを出す。家出とは「家を出る」こと。だから家出とは、単なる非行ではなく、自立に向けた一歩であると考えられるでしょう――。
本書で書かれているのは書名のとおり「むずかしさ」であり、河合先生はおおむね「難しいですよ手抜きできませんよ楽なハウツーに逃げちゃダメですよ」ということしか言ってない。
子どもを大人にするための画一的なハウツーなんかない。世間の年寄りや教師がよく言う紋切り型の教育論が当てはまるケースなど現代ではまずないし、だからこうしなさい、という新しいハウツーも提示でいない。何しろ社会がどんどん変わっていくんだから、モデルなんかない。ただただ相手と自分を信じること、意味を探り、自らの存在を賭けて真剣に対決することによってのみ、つまづきは克服される、と何度も繰り返して述べられている。
家出した高校生の話では、まず「物分かりのいい親」である両親に「子どもが家出をしたのは親に落ち度があったためだ」と単純に考えてしまってはいまいか、と指摘する。両親は「よい子(=大人にとって都合のよい子)」に育てようとしすぎていたことを反省する。そして、いろいろあって、「よい子」でい続けてきた子どもの、親から離れて自立したいという思いが爆発した結果生じたのが家出あったのだな、という理解に至る。
結果、話し合いが行なわれて高校生は家に戻り、つまづきは1段階克服される。そして高校生のみならず両親にとっても、成長の機会となった。
が、すぐに次の「つまづき」が起る。両親は子どもの自主性を尊重しようとするが、高校生はそれを良いことにだらけ始めてしまう。自主性を尊重すると言った手前注意しがたいと再び相談に来た両親に、河合先生は、親もまた自主的に行動し、親の思いをきちんと子どもに伝え、対決すべきだという。
ハウツー化されないことの厳しさ
現代を適当なハウツーに当てはめて生きることなどできない。つまづきの意味を見極め、存在をかけて対決し、克服なければならないと、河合先生は繰り返し説いている。言葉はやわらかいが、内容は厳しい。
読んで思ったのは、仕事やら何やらで時間に追われ、分かりやすく実践しやすいハウツー・マニュアルで生きることに慣れてしまっている人にとって、本書のことばをまともに受け止めることはキツいし、頭に残りにくいし、覚えやすく聞こえのいいハウツーに印象度で負けやすいんじゃないかなあ、ということだった。
本当にちょっと前のハウツーなんか役に立たない(ジャンルにもよるが)
最後に個人的な体験を2つ。
その1:
ここ2年近くの間に経験してきた出産・育児の分野では、研究が日進月歩で進み、育児理論もどんどん変わっていて、まさに本書でいう「枠組みが変わっている」状態で、親世代のハウツーなんて本当に役に立たなかった。医師や専門家の言うことも人によっていろいろで、自分で勉強し、自分で考えて決めないと、後でどんな後悔をするハメになるか分かったもんではないと思った。
その2:
先日、子どもがテーブルに置いていた私の財布で遊びだし、カードや紙幣を抜き出してはバラ撒く、取り上げようとすると怒って泣く、という状態になってしまったことがあった。こりゃ下手に取り上げると大変だと思ったらしく、妻はそれをムービーに撮っていた。
「金で遊ぶとは何事だ。将来ろくな子になんねーぞ! しかも、それを止めずにムービーに撮るなんて、どうにかしてる!」とかなんとか思っちゃうおじいちゃんおばあちゃんもいると思うが、というか私も一瞬そう思ったが、よくよくムービーを見返したり、考えてみて、意見が変わった。
この財布はいつも子どもの目の前で私がいじって遊んでいた(ように子どもからは見える)ものであり、子どもは親がしていることをよく見てて、自分もやってみたいと思うものであるし、いつか遊びたいとずっと思っていたんだろう。
それに「金で遊ぶなんて!」という発想は観念的なもので、現実論としてはどーというものではない(野口英世ターバンとどっこいでしょ、といった弁護ができんこともない)。
要は「親が現在使っている携帯はものすごくいじって遊びたい。でも古い携帯を与えられてもぜんぜん遊びたくならないんだよ不思議だね」現象と同じなんだなあと結論した。そして本件に関しては、財布はちゃんと手の届かないところに置こうと、その点のみ反省した。もちろん、もうちょっと話が分かるようになったなら、きちんと言い聞かせて取り上げるべき場面ではあるけども。
これは親馬鹿告白ではなく、通り一遍の一般論やべき論だけで考えても、あんまり幸せな結果にならないことがあるよね、という話。0歳児の行動パターンは簡単なので意味も推測しやすいけど、思春期になったらずっと難しいのだろうな。












