スピリッツ×mixiコラボ企画に見る、マスメディア人的発想の限界  

マンガ「ぼのぼの」の、どの巻だか忘れたけど、こういう話がある。

ガキ大将のアライグマ君が、一人で森を歩いている。やがて、一人で歩くことに退屈したらしく、仮想の誰かに対して話しかけながら歩くようになる。

アライグマ君はカメラ(あるとすれば)に向かって話したりポーズを決めたりするが、その次のコマでは、そのアライグマ君を背後や横など別の角度から映す。何も無い場所に向かって話しかけたり指差したりするその姿は、滑稽で、どこか淋しげでもある。

スピリッツ×mixiコラボ企画の、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」日記がすごい

mixiとスピリッツがコラボレーション企画をやっていて、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の主人公・田西とマイミクになってみたのだけど、これはすごい。作品の魅力をガッツンガッツン殺している。

ボーイズ・オン・ザ・ラン 1 (1)なんだろうなあ、この違和感は。コミックス1巻からのストーリーが彼の日記という形式で書かれていくんだけど、文章を手堅くまとめる上手さがあるくせに、文章が手堅く淡々としすぎていて、マンガではあれほどアレだった出来事の凄まじさが、全く伝わってこないのが気持ち悪い。こんな自意識の奴いるのか? とても当事者の書く文章とは思えない。

このあたり、マスメディア(マスメディア向け広告代理店)人の発想の限界なのかもしれないなあと思う。書いたら書きっぱなしというか、生身の相手からの反応を想定した文章になっていないし、一人称視点の「日記」で文体はそうなっているが、主観的な感情の吐露がない。ほぼ、あらすじを追って行動を記録しているだけ。そんな日記を書くお前は枯れきったじーさんか? それとも小学生か?


「コミュニケーションで読ませる」という仕掛け

SNSにいるような人は、もっと「コミュニケーションを読む」ことに慣れていると思う。断片的で主観バリバリの日記から、あの人はこう書いてて、こっちの人はああ書いててこういうコメントもしているから、全体としてはこんなかな? といった構築ができるんじゃないかなあ。

人の日記を読むのってそこ(いわゆる詮索?)が楽しいんだと思うし、そこを楽しませないのはダメなんじゃない? と思う。せっかくのmixiなんだから、こぢんまりとまとまった1本の文章でなく、もっと多面的なコミュニケーションの中で見せていくべきだ。

例えば、衝撃的な出来事があった時、夜ごろの田西の文章は支離滅裂で、次の朝にフォローの日記が入るとか。田西と青山、さらにちはるが適当なタイミングでマイミクになり、しばらくぎこちないやりとりが続くが、ある日突然田西がmixiをやめてしまうとか。で、数日後に、マイミクになってた読者に「mixiのアカウント取り直しました、よかったらこっちのIDでまたお願いします」とメッセージが来るとか。

「今までのアカウントでmixiを続けられなくなっちゃうような人間関係における事件」って、mixiユーザーにとってすごくリアルで、田西へのシンパシーが一気に高まるんじゃないのかなあ。失恋のショックと、関連した人間とマイミクでいることの嫌さからmixiやめちゃう(で、アカウント変えて入り直してみたり)人って、けっこう居るみたいだし。

mixiの人がこういう運用をやってくれるか知らないけど、私が田西の中の人をやるなら、これくらいは作り込みたいと思う。ただのWebページと違って「コミュニケーションの場でコミュニケーションしない」ことのガッカリ感はものすごくでかいから。


物理的に、ファン全員とコミュニケーションを取ることは非常に難しいだろうが(ピンキーモンキーはようやったと思う)、一定の輪の中でのコミュニケーションを見せる、ということは比較的容易だろう。話は変な方向に飛ぶが、いわゆるアルファブロガー(FPNが定義した以上に膨らんだソレ)の人たちも、ブロガー間のコミュニケーションの中で自分のブランド価値を高めていったような感がある。


上記アライグマ君の例でいえば、アライグマ君が誰かほかのキャラクターと対話していれば、どの角度から撮っても淋しげな絵にはならないはずだし、田西の日記だって、中の人は同一であっても他者とのコミュニケーションを意識した文章であれば、書き方はおのずと変わるはずだ。


追記:円谷プロは上記の機微が超わかってる!

ウルトラマンSNS:懲りすぎな円谷公式エイプリルフール(小鳥ピヨピヨ)

※漢字は「凝りすぎ」が正しいですが原題ママ

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