基本的に、ネットで出会う他者の言うことはすべて信用する  

「ネットで出会う他者の言うことはすべて信用する」ことを心がけている。

もちろん「全部を真実であるとして鵜呑みにする」という意味ではない。相手の述べる設定や物語を尊重し、それをベースに会話をするようにしている、ということだが。


ネットで出会う人が公開しているプロフィールというのは、つまるところネット人格の「設定」なわけです。年齢がちょっと希望値に修正されていたりとか、プロフィールに現実と夢がごっちゃになっていたりとか、そういうことはままある。

自分が興味を持った人、または自分に興味を持ってコンタクトしてくれ、こちらとしても相手をしようと思った人について、相手が申告した設定、話す出来事、考えを、とりあえずは全部信用する。「疑う価値」がないうちは、いちいち疑わない。


こちらの話とちょっと関連するわけなんですが。
■[ブログ作法]ネットで議論する相手を判断する基準(ARTIFACT@ハテナ系)

ネットに参加する人が求めるコミュニケーションの形、参加するスタンスは人それぞれで、架空の存在になりきって楽しみたい人もいれば、リアル仕事に結び付けたい人もいる。また設定のほとんどは創作だが、最も分かって欲しい部分のみが真実、という人もいる。そんな中からこちらが話をしたい相手を選んだら、相手のスタンスに合わせてプロトコルを調節する、ということだ。ちと露悪的に言えば、ウソっぽい話でも面白そうなら、ウソである可能性を織り込んだ上で乗る、ということ。

枝葉の部分がウソであっても、本当に話したいこと、聞いてほしいことのコアとなる部分には何かしらの真実があると思う。極端な例でいえば、終わった恋愛話のストーリー全部が事実の正反対であっても、それで心の中にぽっかりと穴が空いたような気持ちです、なんていう信条の吐露の部分は真実なんじゃないかと。それがフィクションであってもいい(それはそれで味わえる)物語だ、と思えるうちは乗る。

それに、わざわざネットくんだりまで来て、そこで吐き出しという気持ちを、なんというか、まあ、大事にしたいなあと、いつも思っている。リアルで周りにいる誰かに話すのでなく、ひとりでパソコンの前に座って(最近だとケータイを持って、かもしれないが)、そこで自分の話を聞いてくれる人を探している、という姿を想像して、なんだかやたらとシンパシーを感じてしまうので。


「疑う価値」というのは、言い換えれば「信じて損をする可能性」のこと。例えば金の絡む話になってきたらそれなりの信用情報を求めるとか、恋愛感情が絡みそうになったらネカマじゃないか美人局じゃないか等々確認するとか、まあそんなこと。

継続的に濃い出力をするブロガーに、あまり突飛な架空の設定を使っている人は少ないが、これは、架空の設定を生み、それに沿って物語りを作るのには結構なパワーが要るからだろう。オンラインゲームの人なんかは架空度が高いし、チャットとか掲示板とかの軽いところにも、そういう人は多い、という印象。

リンク先の例はだいぶ難しいなあと思っていて、非モテの話というのはいい湯加減すぎるので、程度の低い論客もどきや愉快犯的な人間も多くなるだろうな、と思う。そのへんは頁(エントリー)を改めて、「客筋のいい人」の回にて。

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