「みんなの意見」なんて所詮この程度、という話
中学の、何年生だったかは忘れてしまった。学期の始めに班ごとの係を決める学級会をしていた。私のいる班は「生き物係」のポストを、もうひとつの班と争うことになった。
私はかなり小動物や昆虫に詳しかったから、生き物係には適任だ、という自負があった。これはクラスの多くが同じように思っていたと思う。それだけに、素直に任せるのはつまらん的な空気もあったような気がする。何しろ古いことなので詳細は忘れたけど、前の学期にもやってたのかもしれない。
そして、もうひとつの班は、学年でも1、2を争うお調子者がいる班だった。生き物係ってガラじゃねーだろ、無理だろう、という空気だったと思う。
どちらが生き物係になるかは皆の投票で決めることになり、その前に両方の班が生き物係への意気込みを演説することになった。とはいえ、意気込んでやるような係でもないから、なんか適当なことをしゃべったんだと思う。相手の班も、そのお調子者が何か適当なことをしゃべった。が、内容がなさすぎた。こりゃ勝っただろう、というかどう考えても無理だろうと思った、たしか。
で、お調子者も「こりゃ負ける」と思ったのだろう。いちど引き返しかけた彼はクルッと向き直り、芝居がかった様子で教壇をバンと叩くと、こう言った。
「マンネリを打破!」
ポカンである。どう考えても深い意味のある発言ではない。その前の演説でマンネリが争点になんてなっていなかったし(私が生き物係を毎度やってることを指してのマンネリだったのかもしれない)。が、インパクトがあったことは間違いない。教室が湧いた。
そして、おそらくはその一言が効いて、多数決(挙手)の結果、生き物係はあちらの班が拝命することとなった。
で、いきものがかり。
彼らはどうマンネリを打破したかというと、「仕事を何もしない」ということで、ある意味確かにマンネリを打破した。すべての教室の水槽や飼育カゴは無惨なプチ地獄と化し、係じゃねえからと生き物が死ぬのを傍観するわけにもいかないので、可能な限りの生き物(虫とか魚とかだったと思う)は逃がすか持って帰るかした。
次の学期には、私のいる班がまた生き物係を拝命することとなった。が、生き物がいないのでこれといって仕事がなかった。怪しい水槽が1、2個ほど存続していたかもしれない。
この一件で、私は大衆というものの恐ろしさを感じ、ああいうお調子者は文字通りの意味でしねばいいのにと思った。生き物係になれなかった悔しさのため、ではもちろんなく、そんな明らかに無意味な一言で扇動する奴とされる奴への嫌悪と絶望から。
まあ本当に死なれても困るが。このことから、次のような教訓を読み取れるだろうなと思っている。
(1)多くの人間にとって、自分の損得に直接関係しないことは、ぶっちゃけどうでもいいことだ
(2)ぶっちゃけどうでもいいけどちょっと関心はあるよ、ぐらいのトピックに対して耳当たりのいい煽り文句を吹き込まれると、一気にその方向に傾く。なぜなら、本質的にはどうでもいいことなのでろくなアンテナを立ててないから。大きな刺激に影響されやすい
(3)一度痛い目に合うと、そのトピックは「どうでもいいこと」よりはちょっと大事なことになってくる
(4)残念ながら、痛い目に合う前にそのトピックについていいアンテナを立ててちゃんと思考しようとする人は少ない
(5)「どうでもよくないはずだけど本音ではぶっちゃけどうでもいい」という大衆を自分の側に誘導する技術として、扇動はホント怖い。そして強い。技術を身につけておいて損はないし、仕組みを理解しておくべきだ
(6)お調子者になるには才能と努力が必要。天性のお調子者は自然とその努力をしているわけだが
困ったことに、1~4は現在の私もだいたい当てはまると思う。
「集合知」を期待しても、分母を整えないと集合愚しか出てこない。整える方法としては、人を選んで絞り込むのがいいのか、情報をきちんと行き渡らせれてきちんと考えて貰えばいいのか。それらをどう使い分け、具体的にはどんな手を打つべきなのか。そのあたりは今でもよく分からない。
- 2007.02.02
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