「賢さ」と「権力」が切り離される「wisdom of crowds」の世界  

こんなこと書いてたら梅田さんとシンクロニシティが!

「Wisdom of Crowds(群衆の叡智)」元年(My Life Between Silicon Valley and Japan)

……というほどでもないが。氏のバズを起こす力はまったくもって凄い。著書の感想が1万も2万も書かれている状態を作るなんて、並大抵のことではできないだろう。そして、それを全部著者が読んでいることが知られれば、読者にとって感想の書き甲斐も増すというものだ。

私が先に書いたエントリーでは「群集の叡智」を得るソースとして当然のように「有限(特定少数または多数)の賢い人たち」を想定していたのに対し、梅田氏はネットのあらゆる所からありったけのソースを引っ張ってこようとしているところも凄い。

これをやる理由は3つあると想像する。まず第1に、氏の勤勉さがあるのだろうと思う。第2に「ネタとして面白いから」という点。1万の感想が見つかるなら、いっそ全部読めばいいじゃんと。まだ誰もやっていない行為だろうから、単純にネタとして話題性がある(実際みんな驚いているし)。また、その経験そのものが、これからのインターネットを語る上での良い下敷きになると思う。

そして第3に、氏の著書およびマーケティングによる課題設定の上手さがある。「シリコンバレー精神」は未読だが、「ウェブ進化論」も「ウェブ人間論」も、いろんな読み方ができ、読んだ人それぞれのスタンスや経験を踏まえて語りたくなる。一部の感想だけを食いしてオシマイ、というだけではとてももったいないほど面白く、多彩な感想があるのだろう。

「賢さ」の質の変化。権力とセットでない「賢さ」

インターネットによって、私たちが日常的に接することのできる「賢さ」の質が変わっているのだと思う。

企業や地域社会のような従来の「群れ」の中では、皆同じような環境に暮らし、同じような情報を摂取する。自ずと「賢さ」は同一のベクトル上に並ぶことになり、その中で「最も賢い人」というのが出現する。また一方、群れの外の「賢さ」と触れ合うコストはけっこう高く、機会が少ない。

だがインターネットでは、様々なベクトルの「賢さ」へ簡単に触れることが可能になる。梅田氏の書いたこと、提起した課題に対し、長年医師として働いてきた人物や映像の専門家など、違う畑で育った「賢さ」を持つ人たちがコメントする、というのが一例だ。そこには「最も賢い」という単純な序列などない。くるっと丸めて言ってしまえば、全ての賢さが等価な(実際には優劣もあるが)、尊敬すべき賢さだということになるのだろう。

このあたり、ひとつの群れの中で長く暮らして「賢い人」の地位を得た人にとっては、なかなか受け入れがたいものだろうと思う。

組織の中で「賢さ」には「権力」がセットであることが普通で、他者の賢さによって己の愚かさを知ることになったときも、俺は賢さを受け入れているのでなく、権力に従っているだけだ、といったプライドの保ち方ができる。だがwisdom of crowdsの世界ではこうはいかないから、自分の腹に収めるためのロジックを組み替えなければいけない。また、俺は権力があるから賢い(正しい)、という自己認識もゆらぐ。

こうした変化(……という認識であったのかは定かではないが、こうしたものも含む)に敏感に対応して仕事のスタイルを変え、多数の賢さを呼び起こす問題提起を行い(これがまた難しい)、そしてあちこちで湧き出た賢さを自分で誠実に収集し、大切に保存している、という一連の行為に、梅田氏の偉大さを感じる。


読者に問いかけるように書く


「本を読むときには心の中に質問を用意し、本(著者)に問いかけながら読むべし」てなことを書いていたのは神田昌典氏だったか。これからの時代は「本を書くときには読者に問いかける姿勢でやるべし」ということになるのだろう。何でもかんでも言い切ってしまうのでなく、俺はこういう事実を知っている、こう考えている。で、後はどうだ? みたいな。

というのは半分嫌で、本というメディアには完結した「知識のパッケージ」を指向してほしく、バズが盛り上がるかどうかなんていちいち考えてほしくない。でも、何かの変わり目にコーナーの半分までを読み解き、読者に宿題を残す、といった一種のメディアミックス戦略は、マーケティングの手法としてアリ、ということになりそうだ。

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