ミュシャが単なる萌え絵描きの元祖だと思っていたら大間違いだ  

アルフォンス・ミュシャといえば、ああいう絵を描いていた人、というぐらいの認識しかなかった。だから当然女と花とおいしいものに囲まれて愉快な一生を送ったんだろ、ぐらいのイメージを持っていたのだけど、そんな無根拠かつバカな思い込みは大間違いだった。この前に行ったミュシャ展で、その人生に...

アルフォンス・ミュシャといえば、ああいう絵を描いていた人、というぐらいの認識しかなかった。だから当然女と花とおいしいものに囲まれて愉快な一生を送ったんだろ、ぐらいのイメージを持っていたのだけど、そんな無根拠かつバカな思い込みは大間違いだった。この前に行ったミュシャ展で、その人生に大いに興味が湧いた。


おおざっぱに言って、自らの最も得意な一芸を磨き、都会で大成功して、晩年は故郷のために尽くした、というのがミュシャの人生だ。細かい部分は調べきれていないのだが、私にはじつに理想的な一生だと映る。

(1)偶然のチャンスを掴んで大出世

アルフォンス・ミュシャ1860年、モラヴィア(現在のチェコ)に生まれたミュシャは、絵は得意だが勉強はダメ、というパッとしない少年時代を過ごしたようだ。19歳でウィーンの舞台装置などを作る工房に就職し、おそらくは今でいう「大道具さん」として働きつつ、絵を描いたり舞台に出たりもしていたらしい。28歳頃からはパリに出て、学校に通いながら挿絵画家として糊口を凌いでいた。実力は一応周囲に認められていたようだが、有名ではなかった。

そんなミュシャが一躍有名になるのは、1894年。34歳の時のことだ。

この年も押し詰まったクリスマス過ぎに、ミュシャは新年から始まる大女優サラ・ベルナール主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを請け負う。このとき、ミュシャは友人からの依頼でとある印刷事務所にて臨時の仕事をしており、サラ・ベルナールの事務所から依頼を受けたとき、その印刷事務所の主力デザイナーはクリスマス休暇中であった。

そしてサラ・ベルナールの事務所はポスターの発注をそれまで忘れていて尻に火がついており、ミュシャなんて奴は知らねーよと断る余裕がなかった。このように奇跡のような偶然が重なり、ミュシャがポスターを請け負うこととなったのである。

このポスターの効果について「街中のポスターがあっという間に剥がされてしまった(誰かが持ち帰った)」とか、当時50歳で人気が下り坂にあったサラ・ベルナールの人気復活に、このポスターが大いに貢献した、という文献もあるが、どの程度の真実味であったのかは不明。

だが事実として、サラ・ベルナールはその後6年に渡ってミュシャとポスター制作の契約を結ぶことになる。一方でミュシャは一躍時代の寵児となり、広告デザイナー、宣伝芸術家としての知名度を獲得した。

参考:
サラ・ベルナールとの出会いポスターというメディア―アルフォンス・ミュシャを中心に―

(2)タイアップの芸術家として活躍

アルフォンス・ミュシャ 装飾資料集/装飾人物集今更ながらに知ったのだけど、ミュシャの絵の多くは広告であり、なんというか、ミュシャが「描きたい」と思って描いたというよりは、広告主なり出資者なりの意向を汲んで描いたものだった。

絵の中に出てくるロゴはもちろん当時の社名や商品名だし、特に文字がないものでも、ポスターやカレンダーの絵として使われたのだそうだ。絵の横の空きスペースに宣伝を入れてポスターを刷る、という商売をやっていて、人気の絵はいろんな会社が買っていたという。

ミュシャと同時期のパリの画壇では「印象派」と呼ばれる人たちが活躍していたはずで、例えば印象派の代表格といえるだろうルノワールは1841年生まれ。ゴッホは1853年生まれ。もっともミュシャと彼らの交流があったことを示す資料は見たことがないけど。このあたりは全然調べ足りない状態なのだが、いわゆる純粋な「芸術家」と違い、この頃のミュシャは、かなりビジネス的な視点を持ちながら作品を描いていたのだと思われる。

このあたり、音楽と絵画という違いはあるものの、「タイアップの歌謡史」と合わせて読んだら面白いのではないかと思っている。

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(3)晩年は故国チェコのために尽くす

アルフォンス・ミュシャ作品集パリで功成り名を遂げた(金持ちにもなった)ミュシャは、一時アメリカに招かれた後、1910年に祖国チェコに帰る。50歳になったミュシャは、祖国にて自らもそうであるスラヴ民族の歴史をモチーフとした「スラヴ叙事詩」という20点からなる大連作を、20年かけて描く。

当時のチェコはオーストリア=ハンガリー二重帝国というよく分からない国の一部となっていた。ミュシャが帰国した1910年頃は独立運動が行われていた頃で、1914~1918年の第一次世界大戦を経て、チェコスロバキア共和国として独立した。

ミュシャは独立した祖国のために、国章や切手、紙幣のデザインをほぼ無償で引き受けている。そのほか、プラハ市民会館の壁画や、プラハにある聖ヴィタ大聖堂大司教礼拝堂のステンドグラスのデザインも手がけた。

チェコ時代のミュシャの作品は、フランスで広告芸術家として活躍していた時代しか知らない人(たとえば私)はちょっと驚くような暗いトーンの絵や、いわゆる普通の油絵もある。以下のサイトでいくつか見られる。

参考:
ミュシャのチェコ時代の作品
ミュシャがデザインした切手や紙幣
スラヴ叙事詩(の一部)
Alphonse Mucha @ lit19.com / schedule and archive(2007年の9月までミュシャの絵を公開するとか書いてあるっぽい。現在「スラヴ叙事詩」を半分公開中)


ミュシャの最期は不幸であるが、ある意味では名誉だとも言えるのかもしれない。1939年、ナチスドイツによってチェコスロバキアは併合されてしまい、ミュシャは、作品がチェコ人の愛国心を刺激しすぎる、といった理由からナチスに逮捕される。やがて釈放されるが、逮捕されて弱った体で肺炎を患ってしまい、じきに他界した。享年79歳。


 


ついでにこの話に乗ってみると、

巧みに生きるか、善く生きるか、......(平野啓一郎公式ブログ)
[コラム] 平野啓一郎さんの「巧みに生きるか、善く生きるか」を巡って(My Life Between Silicon Valley and Japan)

まさにミュシャは前半生を巧みに、後半生を善く生きた人だ、と言えそうだ。「巧みに」、「善く」の言葉のイメージは人によって幅があるだろうから、あまり突っ込む話でもない気がするけども。