世のネットユーザーがみんな梅田氏や平野氏なわけじゃない  

いろいろ書く肴にしようかと思っていた「ウェブ人間論」だけど、2回目を読んだらかなりの部分について、ネチネチ絡む必要もないかなあ、という気分になってきた。年末年始にいろいろブログに書こうと思っていたのに、子守りに追われていたら休みも終わってたし。 梅田氏も平野氏も、立派な成功者であ...

いろいろ書く肴にしようかと思っていた「ウェブ人間論」だけど、2回目を読んだらかなりの部分について、ネチネチ絡む必要もないかなあ、という気分になってきた。年末年始にいろいろブログに書こうと思っていたのに、子守りに追われていたら休みも終わってたし。

梅田氏も平野氏も、立派な成功者であり高い能力を持った人物である

そうした中でも、書き留めておきたいことが一点ある。語り手の両氏が、既に多くの実績を残して評価も固めた成功者である梅田望夫氏と、デビュー作で芥川賞を取った平野啓一郎氏という、どちらも社会的評価を得た「立派な人」であり、「能力のある人」である、ということだ。お二人ともネットに住む大多数の有象無象・一般大衆・海千山千・匿名の群集・衆愚の皆さまとは自ずと自意識のありようも違うだろうし、立ち居地も異なるだろう。それはもう、非モテと脱オタの違いのように、根本的な違いとしてあるはずだ。

これによって両氏を批判したいわけではないし、また、新書を読むようなおじさん世代にはきちんとフィットする語り手であると思う。私が以下に書くのは「ウェブ人間論」の感想というよりはダシにしただけ、という感もあるのだけども、まあともかく、ネット時代の人間のありかた、生き方論としては、語り手がこの両氏だけというのは、視点が偏りすぎているように思った。もちろん、この本だけで全部の視点をカバーする必要はまったくないのだが。


梅田氏が語る「ネットに住む」の超然っぷり


梅田氏の語る「ネットに住む」の具体例は、超然と達観していて「迷い」がない。氏の年齢と仕事を考えれば当然のことではあるのだけど。

「迷い」とはノイズに惑わされてしまう心の揺らぎであり、まだ自分が何者であるのかも分かっていない若者は必ず持っているだろう。そしてインターネットは、無数のノイズが行き交うカオス空間である。

梅田氏は既にリアル世界の成功者であり、ネットに「住む」とは言ってもそこはいわば別荘。「常設の梅田劇場出張所」ぐらいのものではないだろうか。いくらネットで傷つけられても、リアルで十分な実績と評価者を得ており、立ち直ることは比較的たやすいはずだ(大変に僭越な想像ですが)。

ノイズを乗り越える術を既に身に着けた人が語る「ネットに住む」ということは、一面でいえば間違いなく有意義な話であるのだけども、その手前の段階で悪戦苦闘している人にとっては、パンがなければお菓子を食えばいいんですよ的なものに感じられるのではないだろうか。私も半分そう思った。

繰り返し言うが、この本はビジネスマンが主に読む新書なんだから、読者は当然そういう処世術は身につけている、という前提で問題ないとは思う。私が勝手に若者の話に絡めているだけで(もっとも、実際はおじさんの多くはネットにそれほど精通しておらず、ネット特有のものは身についてないと思うが)。

こういった意味では、芥川賞は取ったものの、まだまだ若く自己評価もそれほど定まっていないであろう頃にネットに接した平野氏の視点に、「ウェブ人間論」全編を通じてより強いシンパシーを感じた。とはいえ氏には「芥川賞作家」という明確な社会的評価(これだけじゃ食えないものらしいが)があっただろうも思うが、露出が大きかっただけにバッシングも大きかっただろうと想像され、このあたりは相殺されるか、マイナスの方が大きいものだろうとも思う。

梅田氏のおっしゃる「分身」という言葉に感じてた違和感については、こちらの記事が上手に語っておられるように思った。

「あちら側」にハミ出すアイデンティティ(アンカテ)

私が「ズレ」を感じたのは、その「分身」のリアリティ、あるいは、そこに投影したアイデンティティのようなものが、一つの実体を持つという可能性についてだ。

梅田さんにとって「分身」はあくまで「分身」で、梅田さんの「自己」あるいは「本体」はネットの「こちら側」、リアルの世界にある。


まだ自己の「後ろ盾」を持たない若者たち


私が最も興味を持っているのは、まだ何者でもない、社会的な成功も収めていなければ自意識として自分が何者なのかも分かっていない若者がネットに触れた時、どんなことが起こり、それに対してどう対処するべきなのか? ということだ。

梅田・平野両氏とそうした若者の違いは、自分を信じ抜く力の後ろ盾となる、しっかりしたもの(自己肯定感)が有るか無いか。この差はとてつもなく大きいと思う。

「自己肯定感(『自己評価』とも)」とはどれだけ一般的な言葉なのかよく分からないが、自分の能力や才能に対する「自信」とはちょっとニュアンスが違い、能力のあるなしに関わらず、主に周囲の愛情によって育てられる「自分には価値がある」、「自分は大切な存在だ」という自己認識のこと……らしい。主に育児・教育の分野で使われる。

参考:
自己肯定感をクリエイト
教育改革以前の問題

これからの時代は「ネットを利用すること=他者とのマッチング装置・コミュニケーション装置を利用すること」と考えられるだろう。その中では、良いこともあるだろうが悪いこともある。何者でもない、これといって自己肯定感もない若者がふらりとネットに参加し、何をするんだろうか。何を根拠に自己を表現し、何を後ろ盾に自己を守り、心がぽっきり折れた時には、何によって修復するのだろうか。そのあたりのイメージがうまく持てずにいる。


ネットに「本体」を託したい、けど託しきれない人


これといって能力もなく、家族とのコミュニケーションも少なく、学校でも居場所がなく、リアル世界に何の後ろ盾もなくてネットが一番の楽しみ――ネットこそが「心の本宅」である、という生き方をしている人もいる。

そういう人たちが、ネットでさらに心を荒ませることなく暮らせ、できればネット内で自己肯定感を育んでリアルの生活にポジティブなフィードバックができるようになるには、どうするべきなのか?

ちなみに、私が最も腐っていた頃の生活パターンは、こんな感じだった。朝(昼か)起きたらメールをだらっと読み、IRCを無感動に眺めながら、20個ぐらいタブを開いてどうでもいい掲示板やチャットサイトをだらだらチェックする。無意味にリロードして新しい書き込みを探し、全く価値のないコメントをたまに書きこみ、それにレスポンスがあるのが一日の最大の喜びで、何か揉め事になってしまうと一日中鬱々とし、プルプルしながら反論を書いて、相手からの反応があるまでひたすらイライラして他のことは何も手に付かない。

見事に「ネットに住んで」いる。ネットという麻薬生成装置を常にチュウチュウと吸い、何か刺激を受けて脳を動かさないと、生きていることを確認できない状態なのだ。だが、全てのコミュニケーション(刺激)は見事に刹那的で非生産的である。皆が昨日から進化していないクソであることを確認し合うために毎日クソっぷりを語り、聞き、傷に触れるのを避けながら上辺だけの会話をする。多くの連中は検索なんて使えない(使おうとしない)愚民であり、「○○って何?」、「△△なんじゃねーの?」とか「面白い話して」、「ねーよ」といった脊髄反射の会話が延々と続く。

ウェブには、そういう何も生産しない貴族のサロンみたいな所が山ほど存在し、毎日同じ時間になると同じメンバーが集まってきたりする。

絵文字も空気も読めません 10代がハマるSNS「モバゲータウン」を28歳(♀)が探検した

しかも、こうした貴族たちは、困ると「リアルでは○○だから」とか言い出す。結局のところネット内の自分は「分身(梅田氏のおっしゃるところとは違う意味になるだろう)」に過ぎず、リアルではもっと良い子なのよ、と自分をかばおうとするのだ。


ネットに居てリアルの自分を忘れることによって一時的に自己肯定感をリセットし、また、ネットでの傷を切り離すことによって自己肯定感をリセットする、というようなことをしていては、永遠に自己肯定感は育み得ないし、残るのは両方での挫折感と、じわじわ落ちていく自己肯定感/他者評価だけだろう。


何者でもない自分を、うまく伸ばす場としてネットを利用するには


まとまらないまま書いてるので疲れてきた。箇条書きで強引にまとめておく。

考えたい課題設定

  1. まだ何者でもない若者が、ネットに参加することでどうなるのか

  2. 若者は何を根拠に自己を語るべきか。

  3. リアル社会でうまく育まれなかった自己肯定感を育む場として、ネットは機能しうるのか

  4. ネットで自己肯定感が損なわれことを、どうすれば防げるのか

今の考え

  1. 新しい人間マッチング装置が手に入る。挨拶などの標準的かつ無難な会話からゆるゆると始めるといった面倒なプロトコルを取ることなく、いきなり「L×月」か月×Lか」なんてところから会話を始められ、全国からそれにマッチする相手を探せる。よくも悪くもコミュニケーションの偏食のようなことが起こるだろう。嫌いなものを食わないで済むのは良いことだと思うが、ある種のトレーニングを積む機会を失うおそれもある

  2. 下手に語らず、おとなしくROMっとくことが上策なのではないかと思っている。それほど多くのケースを見ているわけではないが、ネットに参加する若者は若年者の立場を大いに利用し、年長者に甘え、学ぶのが最も良いように思う。下手にケンカを吹っかけると自分の甘さを思い知らされ、コテンパンにされる。その前の話として、若者が同年代が集まるコミュニティに参加しても意味がない(学校で十分でしょ)と考えている。大人の思考に触れるべきだ。
    同時に何らかのスキルを磨き「自信」の根拠を育てることも必要なのだろう

  3. 機能しうる。「傷を舐めあう」タイプのコミュニティ、「上を目指すために研鑽する」タイプのコミュニティなどを心理状態に応じて使い分けるか、共に進める1、2人ぐらいの仲間を見つければいい。逆にいえば、そうしてコミュニティを使い分ける処世術がないと、永遠に変わらない人たちのサロンに留め置かれるおそれもあり、そこにはなんらかの類の自己管理能力が必要なように思う。過剰な「人の好さ」は捨て去るべき、というべきかもしれない

  4. 「自分は若輩者」という意識を持ち、それを相手にも認識してもらい、謙虚さをもって相手の寛大さ、先人としての知識に甘えることが重要だと思う。後進に教えることで自分も成長できる、ということを大人は知っているはずなので。
    よく「ネット上では年齢は関係ない」という人がいるが、それは違う。中学生の中学生なりの青い意見は成長の一段階として受け止められるのが自然だと思うし、同じ厨房な意見を見つけた時でも、大人だったときの対処とリアル厨房だったときの対処は別、というのが良識ある大人の態度だろう。